2015年12月30日水曜日

シンガポールでワンコインで泊まるたった1つの方法



そんなわけでただいまビザランでバリからシンガポールに出ております。

しかしシンガポールの宿泊は高い。昨今の円安もあって、どんなに頑張っても1000円を切ることすら難しい。

Agodaなどで探してみても、ホステルのドミでやっと1000円ちょっとというところだろうか。

年末年始のマリーナ・ベイ・サンズは1泊3万円から♪
まあ日本に比べたら1000円宿があるだけでもありがたいのだが、アジアではワンコインで泊まれるところはいっぱいあるので、やはり割高に感じてしまう。

友だちのツテで泊めてくれる人を探してみたが、シンガポールの部屋は狭いらしく泊めるのもちょっとキツいらしい。

そこで思い出したのがAirbnb

自分はいつも最安の宿に泊まるので、Airbnbだと高くなってしまうのだが、ひょっとして安いとこないだろうか?と藁にもすがる思いで(笑)探してみた。

安い部屋もあるが全部ホステルで、軒並み1000円台。どこも一緒か。。と思っていたら町外れにおもしろい物件を発見!

NUS(National University of Singapore)近くにある部屋なんですが、これが最大3人まで泊まれて、手数料込みで1泊1,500円くらい。


NUSはこのへん↑

そしてここがホステルとの違いなんだけど、どうもこの部屋、3人で泊まっても同じ値段みたいなのだ!

ということは友だち連れて3人で泊まれば、シンガポールで夢の1泊ワンコイン達成!!

ホストさんの設定間違いでなければいいんだけど、シンガポールでもこういう部屋はここ一つだけ。

町外れとはいえシンガポールの東大・NUS近くなのでたぶん治安はいいんでないか。少なくともゲイラン近くの安ホステル(わたくしの定宿)よりは( ̄▽ ̄

部屋の説明にもSTUDENTにオススメと書いてある。町外れで、学生が多い界隈ならたぶんホーカーで安いご飯とかもあるんでないかな。

中華ホーカーの代名詞・鶏飯なら$3(SGD)くらい
今回は急でできなかったけど、日程の合う知り合いがいなくても、ホステルで知り合った人とシェアするという手もあるかと。

Airbnbは登録すると2,500円前後のクーポンがもらえるので、ワンコインならシンガポールでほぼ無料で5泊もできてしまう!

なんつーか、もうちょっと早く気付けばな~~~orz

とりあえず試した人はどうだったかぜひ教えてください^^
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2015年12月28日月曜日

バリ移住について考えたこと



バリは日本から近い。直行便なら7時間だ。

インドネシアは東アジア、東南アジアで唯一の南半球にまたがる国だ。
バリは南半球に入り、原発ひしめく北半球と、海流も大気も流れが逆になる。
放射能漏れがあっても比較的安心だ。

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もちろんガンガン汚染水を垂れ流してる状況では南半球だからといって大丈夫とは言えない。しかしインドネシアと日本の間にはフィリピンがあり、少なくとも海流は入り込んで来なさそうだ。

バリには固有の文化が息づき、息を呑むような美しい文化的景観に溢れ、それに惹かれた外人が多く住む。

文化と自然が融け合う

バリは外人が多いので、英語が通じる。
外人向けの学校もある。GREEN SCHOOLは金持ちの外人に人気の学校だ。
象竹で作られた校舎が本当に素晴らしい。

バリは地元に住み続ける人が多く、外人も多いので東南アジアとしてはかなり治安がいい。とは言え日本ほどではないだろう。

バリは生活費が安い。ローカルに近い暮らしなら、1人で月額1万円切ることも可能だ。
同時に外人向けの家もたくさんあり、プライベート・プール付きのヴィラに住む人も多い。それでも東京の家賃とそう変わらない。

お金を出せばこんな生活も

バリはご飯が美味しい。MSGフリーの美味しいベジタリアン・レストランもある。
それでいてとても安く、100円くらいで食べることも可能。
もちろんもっと出して外人向けのハイソなところに行くこともできる。

質の高いベジごはんが、100円!

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バリはいいことばかりではない。
途上国、新興国にありがちなプラスチック・ゴミはバリでも大問題だ。
水不足な上に水質は悪く、田んぼでクワを入れるとプラスチックの破片が無数に出てくる。
日本人のグループがこの問題に取り組んでいる。


バリは土地が高い。
毎年30%上がっているという話が本当なら、3年経てば倍になる。
農地も高く、1R借りるのに2万円程度する。日本の10~20倍である。

バリは地球上で紫外線がとても強いエリアにあたる。
このブログを読んでいるあなたはそうではないかもしれないが、白人は特に気をつけたほうがいい。
地球がそういうものなら、個人的に対策しつつうまくつきあうしかない。

ケミカル赤道に、残念ながらインドネシアはすっぽり入っている。
バリに来ると咳が多くなる気もするので関係あるのかな、と感じることも。
最近インドネシア中で火山活動が活発なので、火山灰のせいかもしれない。

ケミカル赤道は人災なので、社会的に対処せねばならないと思う。
それは対処療法ではなく、原因そのものを無くせるものなのだから。
紫外線も、オゾン層の問題なら同じことだ。

インドネシアはイスラム主流の国家だからか、酒が高い。
たぶん税金がかかっている。ヒンズーが主流のバリも例外ではない。
販売目的でない自家製は合法なので、ローカル酒を作ってみてもいい。

ビンタン・ビールも最安で140円くらい。ワインなどはとても高い。

インドネシアはもともとオランダの植民地だ。バリもその中に含まれる。
いつもニコニコしているバリ人からは窺い知れないが、この島にも悲しい歴史はいくらもある。

それを繰り返さないことに手を携えられるなら、私たち外国人がここに来る意味は大きい。おそらくそれはこの美しい文化を護り、自然を回復する中にあるのだろうと思う。

折しもインドネシアは最近、2050年まで原発を入れないことを決めた。
南半球国のブランドを護り、向上したナショナル・ブランドは未来志向で有為な人々を惹きつけるだろう。

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海外移住と紫外線の世界地図
http://emigration-atlas.net/environment/ultraviolet.html

地球の大気を二分する"化学赤道"
http://ameblo.jp/akitamamoru/entry-10593886060.html

住み良い街の条件とは?世界を回って考えてみた(・∀・)
http://airtanah16.blogspot.com/2015/12/blog-post_73.html


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2015年12月27日日曜日

住み良い街の条件とは?世界を回って考えてみた(・∀・)



バリで自然農やってるだけでネタは無限に出てくるのでなかなか書けない(笑)のだけど、テーマに住みよい街とか掲げてるのでそろそろ書いてみる。

気持ちよく生きれる場を見つけたり、仲間と一緒に作ったりしよう、というのが究極の目的。それに向いてるところはバリ以外にもいろいろあるはず。

自分にとって住みよいってどういうことだろう?これまで気に入った街の共通点って?

書きながら整理してみたい。

■住みよい町の基準
思い返せばここいいなあ、とバリ以外で思ったのは

  • インドネシア-バンドゥンマリノ
  • タイ-チェンダオ
  • ラオス-バンビエン、ルアンパバーン
  • ベトナム-ホイアン、ダラット
  • カンボジア-シェムリアップ
  • キルギス-ビシュケク

。。いっぱいあるなあ(笑)

こうして見ると、たぶん自分が惹かれるのは

  • 緑が豊か
  • ユニークな文化
  • 生活費が安い
  • 知的な人がいる
  • 長期滞在が可能
  • 外部者を受け入れている農園がある

くらいが基準になってる気がする。もちろん全部満たすのはそうはない。

そして嫌いなのは大都会のようだ。

ヨーロッパとかだとまだ文化的でいいのだが、東南アジアの風土を度外視した街にいると、本当に身体がぐったりしてくる。バンコク、シンガポールはもうその時点でダメ(xx

デンジャラス・バンコック。東南アジアに建設された大都市は、超・ヒートアイランド

■東南アジアの住みよい町
そこいくと例えばインドネシアのバンドゥンは200万都市だがちょっと郊外に出れば田んぼが青々と広がる。近くのガルッの自然はダイナミックで見事だ。そしていくつもの大学がある文教都市でもある。

高原で涼しいのもいい。美人の産地でもあるらしい(・∀・)ただ固有の文化という意味ではあまりそれを感じないのと、どうしてもビールが飲みにくいのが(笑)

涼しさと自然ではタイのチェンダオもいい。ベトナムのダラットも涼しく、植民地時代のリゾートエリアはフランスのよう。

スラウェシのマリノも自然がインドネシアとは思えないほど美しく、そして人がとっても優しい。これからの町として注目しているので、ヘンにリゾート開発されて環境汚染まっしぐらとかなりませんように(^_^;)

文化的という意味ではホイアン(ベトナム)、ルアンパバーン(ラオス)、シェムリアップ(カンボジア)がいい。

けっこう美しいシェムリアップ川沿い。町は普通だがプノンペンよりのんびりしてていい。

ラオスはバンビエンも自然がユニークで、リアル・ドラゴンボールの世界(笑)そして日本の自然農を実践している農園があり、世界中から来た知的な人びとと語らうのが楽しい。

ルアンパバーンの近郊の自然も豊かなので、観光農園でファームステイとかあるとなあ。メコン川をボートで渡って行ったりね、いいと思うんだけど。

ただこのへんは全部、蒸し暑すぎるんだな。。生活費もシェムリアップ以外は不明。ただカンボジアよりは安いんでないかと思う。

■先進国は高く、長期滞在もしづらい
コストを度外視すればスペインのバルセロナ、アメリカのSF、バークレーなんかも美しく、知的で、飯もうまく、とてもいい街だった。カナダのB.C.も美しいが、なんか天気悪いんだよな。

豪とNZも、あらゆるコストが考えられないレベルなので就職しないとムリ。

またものすごく人工的な感じがしてどうも自分には微妙なんです。。確かに美しいんだけど、どこかに常に忍びこんでる不自然を感じてしまう。なんだろあの取ってつけた感(・・?

また先進国では長期滞在もたいてい3ヶ月まではできるけど、それ以上はハードルが高い。生活費が高いのに就労のハードルも高い。ワーホリとかできる年齢の人はその間に行っておくのがいいよ。

ヨーロッパなら東欧のほうは生活費は安く済むと思う。

■意外な穴場、キルギス(季節限定)
キルギスはロシア語をとても安く学べるので、興味のある人は行ってみてもいいと思う。親日で日本のなんたらセンターみたいのもあり、そこでランゲージ・エクスチェンジの相手も見つけられるかも。

時期的には夏と秋の間くらいにそれぞれ2ヶ月ほど滞在するととてもいいと思う。それ以外は気候が厳しすぎて俺にはムリ(^_^;)

あと食べものはとても安いが住居費が先進国並みという感じがする。

安いドミトリーはあるので、2ヶ月くらいならそういうところで凌ぐのがいいと思う。ちなみにそれでも月に2万円前後はかかる。


雪解け水を巡らせ、緑が繁るビシュケク
都市は首都のビシュケクくらいで、その近郊も広大な農地なので、ウーフできる農場があったらとてもいいと思うんだけど。ロシア語が学べる以外は街はしょうもないが、町から離れれば手付かずの素晴らしい自然がある。




ビザも2ヶ月ノービザと日本人にはとても優しい。

とは言え昔はビザ無しで無期限滞在できたから相当厳しくなったのだが、隣のカザフがノービザ2週間可とゆるくなったおかげでビザランできる(はず)。

あと隠れたメリットとして、USドルがキャッシングできる!というのがある。

ただビシュケクの治安は悪い!警官がカツアゲしてくるし、ニセ警官が金を騙し取ろうとしてくるし、頭のおかしいオヤジに追っかけまわされたりする(^_^;)

地方では警官がそもそも少なく、悪さすることも少ないらしく、都市の刺激が必要ない人はそっちのがいいかも。

■やっぱ自分はバリ\(^o^)/
まあそんなわけで、町なかでも滴るような緑があり、どこにいても包み込まれるような文化があり、世界中の多様な人が集まり、半年連続滞在でき、月に1万もあれば生活でき、お世話になれる自然農園があるバリは、本当に稀有な場所であると分かるであろう。




ほんま考えれば考えるほどここやねんなあ。
そんなわけで生き方を変えたい人、一緒にバリで農園やろうぜ!(^o^

結局それかい(笑)


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2015年12月25日金曜日

コミュニティなベジ・レストラン☆ワルン9



ウブドを南に外れていくと、ロットンドゥという村に入ります。

その入口辺りの坂を上がったところにあるのがこの名店、ワルン9!

知る人ぞ知る店であってほしかったんですが、とうとうTripAdvisorに紹介されてしまい、めっちゃ外人が来るようになりました。


9 Warung
http://www.tripadvisor.com/Restaurant_Review-g297701-d6000276-Reviews-9_Warung-Ubud_Bali.html

ここはベジ・レストランなんだけど、ベジだとはいえこれは安いだろう!というお値段。

何しろ1品3,000ルピアくらいで、ご飯とおかず2品つけても9,000ルピア、80円前後!
自分は煮物2品と揚げ物1品が多いですが、それでも12,000ルピア(100円くらい)!

これで、100円!

これくらい安いとたいていMSGまみれで油も悪いことが多いので、自分はそういうの毎日だと胸が悪くなってきてしまいます。

しかしワルン9のご飯は違う!毎日食べられる質の良さなのです。

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2015年12月24日木曜日

田植え!田植え!田植え!



そんなわけでついにこの日がやってまいりました。。

思うように芽が出ず籾との対話を繰り返した日々。結局籾が古かったのが理由なのか、種籾を入れ替え、ついに大量の苗を確保。

バリの強い日差しに負けないよう、大事に守ってまいりました。

種籾もそうだが、苗も小さいうちは太陽から守らないと枯れてくる
そんな苦節を経て!ついに!田植えの日がやってきたのです!!

というか本当はもうちょっと待って5葉にしてから1本植えにしたかったんですが、もうすぐビザの関係でシンガポールに出るので、その前にやっとこうと。

我が愛機で出動!
しかし面白いのはトレイ苗と畑苗の違い。

明らかに畑苗のほうが立派に大きく育っています。色も濃い緑色、体つき(?)もがっしりした感じ。


トレイの方は水はけの関係でカビてきたので籠に入れ替えたこともあるんですが、やはり黄緑で小さく細い印象。手作りトレイは下に穴が無いので、次回は穴開けるかな?


今日は朝からきれいに晴れ、この日を祝福しているよう。いやクソ暑いので実は曇ってるほうがい(以下略


今回は一部だけ植えて、後は1本植えのため生長を待ち、畑に残すことに。

それでもトレイ1つに1時間はかかる。ちょっとだから1人でやったんですが、やっぱヘルプ頼めばよかったかな(^_^;)

そんなわけできれいに並んだ苗!



水もきれいに入って、気持ちよさそうです。。


元気に育てよーーー!^^
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2015年12月23日水曜日

草マルチは畦の守り神



そんなわけで土砂崩れを起こすほどの豪雨が我が田んぼを襲っております。

もちろん土砂崩れも問題なんだけど、拡張中の田んぼの畦が。。まだ乾いておらず弱いので、あっという間に削られ崩れていくのです!

がっちり乾いていた畦も危ないくらい
土砂崩れはもう止めようがないけど、こっちは何か対策できそうです。頭に浮かぶのは棚田を作り始めたときの農園主さんの言葉。

「草が守ってくれる」

そう、あのときも畦に草を敷き、さらに土を被せることで水に土が流されるのを対策したのでした。拡張しているのは棚田の壁際ではないので土が足りないけど、マルチングならできそう。

何しろ刈った草はもう、こんもりイヤになるほど堆積しておるのです!!

今こそこれが役立つとき
と、いうわけでとりあえず弱そうなところに草を敷いてみたところ。。


次の日行っても畦が崩れてない!けっこうな雨降ってたのに!


この成功に気を良くして、新たに作った田んぼの畦すべてに草マルチ。


ちょっと前に刈ったやつはバリの気温でもう土化し始めています。そのまま畦の土になってくれると楽でいいんだけど(・∀・)

腐敗が進み、手を入れると生暖かい
これで降り注ぐ豪雨に穿たれることなく、なんとか雨季を乗り切ってくれる。と信じたい(^_^;)
土がもっとゲットできれば上に乗せてもいいんですが、それはそれでまた流れそうだしな。。

熱帯の大地に激しくうねり絡みあう草、刈るときにはあまりの量にほぼ呪いながら刈っているのですが(笑)、こうなると心強い味方!

ああなんてご都合主義で愚かな人類(・∀・)てゆーか俺か。

なんつーか、やっぱ草は護り神なんやなー。

草に護られ、水を湛えた田んぼを見ながらつくづく思うわたくしでした。


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RAW LIFE―情報時代の野蛮人から(9)



※この記事は、

インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)

遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)

再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)

オランダ病から情報社会へ―情報時代の野蛮人から(5)

情報社会と情報コミュニケーション―情報時代の野蛮人から(6)

情報社会とIT―情報時代の野蛮人から(7)


の続きです。


■情報時代の野蛮人から
インドネシアは資本の暴走から、国民と国土を守ることを選んだ。再び植民地となることを拒否した。そして気高いブランドに支えられた、真の情報社会への道を開いた。

情報時代の野蛮人ひしめく国の民から、敬意と祝福を捧げたい。その国の民は、膨大な情報に溺れることで真実から逃げまわる。恐怖を笑い飛ばして、無かったことにする。

せっかく無かったことにしたものを有ると言うな、と互いを監視する。そのためにITも駆使される。自分の真実を語る者は炎上の憂き目に遭う。技術に支えられた非国民ゲーム。

恐るべき労力を注ぎ込んで稼いだ富を、恐るべき勢いで宗主国に吸い取られていることも「無かったこと」の一つだ。

負担額ナント1兆円!それでも日本政府が辺野古に新基地を作りたい理由
http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/45067

株式売買状況  外人、売越7846億円(前週売越1.04兆円)  個人、買越931億円(前週売越1145億円) 
http://www.jpx.co.jp/markets/statistics-equities/investor-type/index.html



日本ブランドは自分で壊してしまってもう無いのだから、ご主人様からおこぼれをもらわなければならない。

辺野古事業、防衛省の天下り先が8割受注 730億円分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160103-00000009-asahi-pol

差し出す1兆円に比べたらかわいいものだが、ご主人様のおこぼれなのだからこれくらいで満足するのが分というものなのだろう。

野蛮人は歌う。


”俺は明日も働くよ 昨日よりももっとタフに ビタミン剤を飲みながら 俺のことを笑えるかい?”

インドネシアは、一時は金を持っただけの動物と呼ばれ、結局その金さえ失った愚かな野蛮人たちを、胸を張って笑っていい。

■RAW LIFE
インドネシアはお金こそ潤沢でないかもしれないが、文化の多様な国だ。そこに巻き起こる、多様であることを歓ぶコミュニケーションによって、それらは互いに共鳴しあうだろう。巨額のカネがなくても、面白いことがいくらでも産み出されるのは必然だ。

外国から来た面白い人々が触媒となり、それをさらに促す。多様性の上の多様性が次々と産まれてゆく。

バリの森を守ろう! 日本人とバリ人による森林復元活動、今年も始まる
http://bali.keizai.biz/headline/35/

バリのゴミ問題:Bye Bye Plastic Bagとは?
http://suwarubali.com/bbpb/

希望の苗はこうして植えられてゆく。

それはCMが垂れ流す虚飾で自らの生を覆いつくす人々や、粉飾に粉飾を重ねて夜郎自大に陥る社会にはできないことだ。

インドネシアの国是が言う「多様」とは、それぞれがそれぞれであること。それを当然のものとして許す強靭な寛容が、生から虚飾を引き剥がし、それぞれのナマの自分が現れゆく。

そんな中で生まれる新しい文化とは、どんなものだろうか。きっと世界にも稀な、ユニークで、希望に満ちたものに違いない。

日本もまた、世界に稀なる文化を持つ国だ。いや、国だった。

私たちが知らない江戸「日本を愛した19世紀の米国人画家」が描いた、息遣いすら感じる美しき風景
http://japan.digitaldj-network.com/articles/25212.html

その多くが失われたとはいえ、いまだ残っている美しい風景は数多い。これだけ土建にやられても、私が訪問したアジアの多くの地域よりも、日本の自然はまだ美しいと思う。大都市の高品質さも信じられないほどだ。

これはこれで素晴らしいが、これで埋め尽くすことに意味は無い
何気ない風景の中に、日本。
ここに自由なコミュニケーションを回復させれば、いくらでもルネサンスは起こる。日本は再び発掘され、復活し、創発する。雑居ビルとアスファルトに取り囲まれ、街の一角に剃り残しのようにブンカザイが残るのでなく、再び街そのものが日本となる。日本の国土が、再び日本となる。

アスファルトに取り囲まれ、電線に遮られた寺社。近代の牢獄にも毅然さを失わず、私たちに何かを語りかける。
文化に漲る鼓動は、生きている社会が充填するのだ。恐怖に身が固まり、自分の真実を自棄し、欺瞞を現実と呼んで諦めざるを得ない社会は、生きているとはいえない。そしてそのすべてを原発は持っている。だからインドネシアはそれを却下したのだし、それはその社会が死に魅入られず生きていることの証左でもある。

日本人よりも物質的に豊かとはいえない生活をする人々が、安易な経済行為に逃げずに生きる矜持を示したのだ。日本人がやれない言い訳に逃げることなど、できないはずだ。

動物や野蛮人を卒業する時が来たのだ。振り回されて失われた、自らの生を取り戻すことで、自分たちの社会も取り戻す。少なくともその回路を開くことは可能だと、アジアの同胞は示したのだ。



(了)
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インドネシアの情報ルネサンス―情報時代の野蛮人から(8)



※この記事は、

インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)

遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)

再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)

オランダ病から情報社会へ―情報時代の野蛮人から(5)

情報社会と情報コミュニケーション―情報時代の野蛮人から(6)

情報社会とIT―情報時代の野蛮人から(7)

の続きです。


■情報ルネサンス
ここに豊かな資源を持ちながら、その盲目的浪費を回避し、外国からの搾取の心配もない国があるとしよう。国民はどう生きようと暮らしを立てられる。この大安心に支えられ、コミュニケーションは恐怖から自由で健全なものとなり、ハラスメントは影を潜める。



踏みつけにされる恐怖があると、自分が踏みつけにする側に回らないと怖いので、踏みつけにできる誰かを探してしまう。相手を追い込むためにもっともらしい枠組みを持ち出し、常にお互いを監視する。そのためにITも有効に使わねばならない――そもそも恐怖がない社会には、そんなことが起こらない。

だから、どんな暮らし向きであろうと、多くの人から見て”貧しい”と思えるような暮らし方だろうと、バカにされることがない。CMの垂れ流す、斉一的な清潔・快適なイメージをむしろ失笑する。様々な”バカげた”チャレンジが許されるし、資源はそれぞれが必要と思う分だけに最適化して消費される。

これは共同体とは根本的に違う。みんな同じだから攻撃されないと安心するというのは、本当は安心と程遠い。それではみんな同じに貧しくあるために、足を引っ張り合うことすらあるだろう。

それは地獄に糖衣の薄皮が貼ってあるだけの何かであり、多様性の中の統一ではない。安全と自由が殺しあう場所に、人間は住めない。



この国では国民が自らの生を謳歌するがゆえに、心ある政治家が選ばれる。誰もが自足していて、与えられる利益がいらないので利益誘導が効かないのだ。そして一人ひとりが自分を生きるために役立つ政治的決定が為され、国是 ”BHINNEKA TUNGGAL IKA(多様性の中の統一)” を裏打ちする。

それが国のブランドを培う。ブランドは国内外の有能で心ある人々を次々と惹きつけ、創造性溢れる人々のコミュニケーションの渦が巻き起こる。その中からユニークな製品・サービスが次々と生みだされる。

自分を生きられない辛さを忘れるための浪費と、お金以外何の価値も感じていない盲目的労働によって経済システムが回っていないので、それらは必然的に非・資源収奪的なものとなる。その先進性がさらにブランドを強化する。

コミュニケーションとブランドの交響に支えられ、大安心も循環的経済も連綿と維持されてゆく。自然と調和した美しい暮らしが創造され、損なわれた環境がみるみる回復してゆく。社会の多様性が培われる中、生態の多様性もまた復活する。もうサーファーが波の中に巻き上げられたゴミを見ることはない。

国民はやがて、国是 BHINNEKA TUNGGAL IKA がその先進性の基盤であり、先進性そのものであったことに気づいてゆく。それは不断に向き合い、磨き続けるべき何ものかなのだ。

そこに生きる人それぞれの真実が、何度失われても損なわれても、多様性を護るコミュニケーションの中で再生する。

インドネシアは、そんな情報社会に支えられた国家への道を開いたのだ。ブランドを構築し植民地化を拒否し、国民のコミュニケーションへの信頼を培うことによって。

続く
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情報社会とIT―情報時代の野蛮人から(7)



※この記事は、

インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)

遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)

再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)

オランダ病から情報社会へ―情報時代の野蛮人から(5)

情報社会と情報コミュニケーション―情報時代の野蛮人から(6)

の続きです。


■寛容のブランド
ITを駆使しない金融業務は、そのキモである金額だって間違えやすいはずだ。預けるほうからしたら、それは不安なはずだ。ではその不安は何で贖われるのか?

システムが担保しない以上、人間がリスクを引き受けるしかない。しかし絶対に間違わないことを前提にしたら、それは不可能だ。本当はシステムでやっても不可能だが、人間よりも遥かにその確率は低い。そして人間の判断はどんどん迂回され、コミュニケーションもやせ細ってゆく。機械にその両方を奪われたからだ。



It happensではない世界を妄想させることで、失敗は許されなくなってゆく。リスクはインフレを起こし、ITシステムにしか取り扱えないものにまで巨大化する。



そうして無限にハードルを上げ合う中で、人間は排除されてゆく。人間同士のコミュニケーションみたいなあやふやなものを排除するから、正確さが担保されるのだ、ああ素晴らしい。言うまでもなく、それは倒錯だ。

ではリスクを無限大にしておいて、しかもそれに対処できるなどと思い込む倒錯に陥らず、エラーに対処するにはどうすればいいのだろう。答えは簡単で、起こってしまったエラーを、人間が真摯に修正すればいいのだ。

間違ったとしても、修正を許す寛容さ。それが作り出す朗らかさと正直さ。それが人間に、正直に、真摯に、エラーに対処させる。

過ちは自ら正せばそれでいい。「過ちて改めざる、これ過ちなり」。この寛容さを社会に期待できるから、人は心の平安を乱されず、自分の真実を捻じ曲げずにいられる。



それには人間がITがうみだすような完璧妄想に陥っていないことと、実際のリスクが大きすぎず、それが発現したときに責任者たちが恐れおののいて棒立ちになり、責任逃れの嘘に逃げずにすむことがその前提条件だ。原発ってどうだと思いますか?

間違いは無いに越したことはない。しかしそれは起こる。起こったときに行われる真摯な所作が、本物の信用を作る。冒頭に書いた不安がそのような仕方で対処されるとき、そこにはブランドがある。東電ブランドって今どうなってると思いますか?

だから本当のブランドは、寛容さが作るのだ。ブランドにおけるコミュニケーションの中で不安は安心へと転化し続ける。それが発現する条件を、社会は維持しなければならないし、ITはそのためにこそ使われねばならない。

逆に言えばリスクを極大化し、パーフェクト幻想を育てて、それに合わせるべく人間を監視するのは、人間の真摯さを毀損する冒涜行為である。ITがそういう用途に使われることに、我々は警戒せねばならない。

■意味、価値から出発する社会
小さなローカル銀行は世界中の情報を集めて投資したりしない。だから大金をいい利率で預けて大儲けはできないが、自分が住む町のニーズに必ずお金が投資される。

あなたはそれを子どもに自慢することもできる。あれは私たちが、この町のために作ったのだよ、と。その安心と誇らしさ。それは社会が不安から解放され、寛容さを発現する前提の一つとなり得るものだ。

そういう「意味」や「価値」を大切にする。互いのそれを愛しむ。それによって経済的にも生きてゆくことができる。意味や価値が情報、愛しむことがコミュニケーション、そしてその集積が経済的価値を生むとき成立しているもの、それが情報社会だ。



情報の基盤たる意味や価値は、人間が生き生きと自由に創造性を発揮する限り、無限だ。生命の燃焼は、有限な資源の持続不可能な蕩尽ではなく、無限の情報が産み出す。

どう考えても不要な大量消費は、「お前は”ちゃんと”してるのか?」「みんな大変な思いをしているのに、お前だけ違っていいと思っているのか?」というハラスメントに常時晒され、意味や価値を愛しむことから――自らが産出する情報から――切り離された意味的飢えによって必要とされるのだ。

だから、自分のなかに創造される無限へと人間を開く。そのために人々を繋ぐ。そのためにITができることは多くある。「同じになる」ためではなく、「それぞれがどこまでもそれぞれである」ためにコミュニケーションを紡ぐのだ。

人間が「固有である」ということは町並みにも現れる
そのために必要なことはもう書いた。社会が寛容さを守りぬくとき、人は自らの産出した情報、自分の真実から離れることがない。それは真正であり、神聖なものなのだ。

だから、情報社会とITはときに相剋するのだ。ITが何に使われるかに、その社会の野蛮さ、あるいは気高さは如実に現れる。

間違ってもITを駆使して、人間を誰かが思いついた何かの枠組みに追い込み、我慢に我慢を重ねさせるのが情報社会だなどと勘違いしないことだ。

続く
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情報社会と情報コミュニケーション―情報時代の野蛮人から(6)



※この記事は、

インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)

遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)

再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)

オランダ病から情報社会へ―情報時代の野蛮人から(5)

の続きです。


■情報社会と情報
ブランドにおけるコミュニケーション、そしてその上に発現する、非・資源収奪的で、生命が燃えるように生きる社会。もう明らかだと思うが、情報社会とはITが普及した社会ではない。

人々のうみだすコミュニケーションが生き生きと活発であることが、深化した情報社会の特徴であり特長である。ITはその特長を維持するため使われる道具にすぎないし、それを毀損するなら使われてはならない。

ITは、生き生きと生きたい、自由でいたい、人間でいたいと当たり前に感じている人々を繋ぐメディアにもなれば、ギチギチに人を監視する呪縛のツールにもなる。マイナンバーはどっちだと思いますか?

バリではいまだに通帳に手書きするローカル銀行がある。


これがそうらしい
LPDは lembaga perkreditan desa で、googleさんの直訳によると農村信用機関。地元にローンする信用金庫みたいなものらしい。

ドイツにもExcelすら使わないで運営している小さなローカル銀行があるという。

ここではITによって失われていない情報、手ざわりのようなものがある、と想像してみる。

コンピュータを駆使せず、紙に手書きでたくさんの記録をつける。大量の数字が自分の上を通り過ぎていくのとはまったく違う感覚。

デポジットの3,000円を記録する。ふと手を止めてロットンドゥのあのおばちゃんがやってるナシ屋の、昨日の売上かなと考える。

バリの路上ナシ屋
あのおばちゃんはどこから食材を仕入れていたっけ。どんな料理が好きだった?お客に人気のメニューはたしかあれだ。。

そんな想像を楽しむ中で、投資のアイデアもまた湧いてくる。この暮らしを壊すようなことはできない。でもそう言えば仕入れに行くパサールに行く道は悪くて、事故も多いみたいだ。あの道がなんとかならないか。あるいはもっと近くに食材を買えるところがあったら?

いやしかしパサールで売ってる人も彼女の親戚だ。きっと彼女はあのパサールで買いたいはずだ。だとしたらどうしたらいいのだ?

こうして自分のなかに次々と情報が沸き起こってくる。

バリの伝統的パサール(市場)

■情報社会とコミュニケーション
もし担当が分かれているなら、そうして考えたことを投資担当に伝えることができる。彼らはデータでは得られない貴重な情報から、生きた投資とは何か深く考え始める。

このような情報やコミュニケーションは、ITで素早く次々と数字を処理する中で簡単に落ちてしまう。人間が人間に向き合う意識があるのか。そしてITにデータを入れる以前の問題、ITのデザインにこういった情報を取り扱う意識があるかどうかだ。

それがなければ、例えば田んぼや古いパサールなどさっさと潰して、近代的な四角いスーパーでも建ててしまえばいい、さっさと大量にモノと金が行き交えば効率的でいいじゃないか、そんな発想になりがちだ。大量の数字をまとめ上げたマクロなものしか見えにくくなるからだ。

そして町並みと文化は破壊され、価値の基盤が損なわれたがゆえに、作ってしまったモノの値段が地盤沈下する前にどうやって売り抜け、誰かにババを引かせるかという、さもしい押し付け合いのコミュニケーションが始まる。

そして最後の押し付け先がなくなったとき、経済は崩壊する。バブルとはそういうものの極端なバージョンにすぎない。

その押し付け合いの成れの果てが、アジア全域に存在するうらぶれた、文化もきらびやかな近代も何もない、どうでもいい町の群れだ。押し付け先がもうなくなってしまったのだ。

ノルマという数字に追われたサラリーマンが、それをするのだ。それで、彼はいったい人間に向き合っているのか?そうでないとしたら何とコミュニケートしているのだろう?

逆にゆっくりと想像が展開する中、マーケティング・ツールを駆使したマクロな分析では見えてこない、本当に重要な何かが見えてくる。安易に儲かるポイントへの投資は、価値のシステムを破壊しかねない。破壊されていいシステムもあるだろうが、それはシステムの全体像に想像の翼を広げないかぎり判断がつかない。

そこで初めて広範囲のデータをまとめ上げるITの出番も出てくる。その基盤にあるのはITにブーストされないことによる、スローさだ。ITを含め、本当に必要なものを見極めるには、自分の感覚を深く全開にしなければならない。遅さは武器にもなるのだ。



続く
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オランダ病から情報社会へ―情報時代の野蛮人から(5)



※この記事は、

インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)

遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)

再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)

の続きです。


■オランダ病から情報社会へ
資源の効率的な切り売りも、蕩尽も簡単にはできない。エネルギーに限界のある社会を選択するということは、そういうことでもある。

それが「発展」を抑えてしまっているように見えるのは、前提条件がある。それは社会の情報化と関係がある。社会が情報化していれば、発展には別のルートと形態がある。

新興国が資源の切り売りで稼がないとしたら、では何を売り、消費してもらうのだろうか?それには、消費とは何であるかから考える必要がある。

見田宗介は消費とは生命の燃焼であり、現代においてそれを可能とするのは情報であると説いた。



「資源をさらに多く蕩尽できること」は、モノが行き渡った現代社会においてもう喜びをもたらさない。だから資源そのものはもう金にならない。資源を組み合わせ、優れたプロダクトを作り出す、その「デザイン情報」にこそ実は金が支払われている。

よって情報社会では資源が大量に収奪されることはなく、最小の資源と組み合わされた情報が、生命を燃焼させているのだ。

オーストラリアで訪問した日本米農場でも、福島から移住された農場主さんが似たことを言っていた。米価は確かに安い。だが米粉のシフォンケーキを作れば、単価は4倍になる。日々食べるお米が充分あるのなら、シフォンケーキを買うのと同じ金で米を4倍食べても、確かに意味は無い。

バリの文化資源も同じことだ。外人がたくさんやってきて金を落とすのは、そこで生産されている米を食べるためではない。

バリの棚田は何か ’深み’ を感じさせる
美しいギャニャールの田園風景
外人の泊まるホテルには、バリらしいガーデン
衣食足り、モノ作りが終わった時代に、さらにたくさん食べたり、新しい家電を買って家の中をごちゃごちゃにしても、ストレスが溜まるばかりで生命が燃えている感じはまったくしない。よって産業が資源収奪的である必要はまったくない。

しかし十分可能であることは、必然的にそうなることを意味しない。

優れたデザインに金がついてくるなら、資源そのものに支払われる金銭が少なくても、結局資源が枯渇するまで製品を大量に作り売り捌きたくなるのではないか。その資源の中には、収奪先の国の自然や、人の命も含まれうるのではないか。

たとえばアップルの下請け、フォックスコンで起こったことはそういうことである。

アップル「解けた魔法」、中国で長時間労働 サプライチェーンの舞台裏
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO40155290U2A400C1000000/

iPhone6利益は6万円でも下請けは500円、超絶格差に中国震撼
http://iphone-mania.jp/news-59142/

ここでは見田の言うとおり、資源そのものではなくデザイン情報にたくさんの金が支払われている。しかしそれは搾取の終焉を意味していない。徹底的な増産のため、海の向こうで徹底的な人的資源の動員が行われる。

アップルといえば、情報時代の寵児である、というのがそのブランド・イメージではないだろうか。だから、見田の言う収奪的でない情報社会が成立するには、様々な前提条件が必要なのだ。

■情報社会の基盤
そしてその前提条件の一つが、石井淳蔵が言う意味でのブランドだ。

事態を重く見たアップルは、サプライ・チェーンの管理に次々と対策を講じている。そんなもの、下請け会社自身が自国の法律に従って管理すればいいこと、と突き放して終わりすることもできたはずだ。コストもかかる。なのになぜそうするのか?

消費者にその状況が露見するに至って、アップルがブランドの毀損を恐れたからだ。

アップルCEOのTim Cook氏、中国のFoxconnの工場を視察
http://iphone-mania.jp/news-50057/

Apple、中国でサプライチェーンの環境対策に本腰
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/idg/14/481709/051300090/

あるいは希望的にこう言うこともできる。アップルは自らの誇りにおいて自らを見つめなおし、あるべき姿を再デザインし、直接消費者に見えない調達すらイノベートした。それによってブランドが守られたのだ、と。

いずれにせよブランドは、企業と消費者がブランドを追い求め、ブランドにおいてコミュニケーションを交わすことは、企業にフィードバックとイノベーションをもたらす。

必要と信じることに一つ一つ取り組んでいけることは、働く人々に誇りを与える。消費者は、そういう誇りある仕事を受け取れたことを、誇らしく、心強く思う。消費者は働く人々でもある。働く場がプライドと両立し得るということは、彼らにとっての希望でもある。

そこでコミュニケートするすべての人を欺瞞から救い出し、生命の燃焼へと指向させる磁場となることで、ブランドは見田の言う現代社会の前提として浮上する。

資源収奪を伴わない、高付加価値の源泉としての「デザイン情報」。それが生み出されるのは、人々の目線を彼ら自身の誇りへと導き、諦めから救い出し、創造性を引き出す土壌があってこそだ。

それは社会が様々な問題を直視し、学習し、その作動を改めることと表裏一体なのだ。

だから、もしインドネシアを先のないオランダ病から救い出し、創造的な情報社会へ導くものがあるとしたら、それはインドネシア自身が創りだすブランドなのである。

適正技術とデザイン情報
そう考えるとブランドがあり、エネルギーはないインドネシアの状況は、大量のエネルギー前提のモノ作り社会を迂回し、直接情報社会へ移行してしまうという先端的な社会発展ルートを切り開くものだ。

もしモノ作りに走るなら、バイクをこれだけ使うなら自前で作れるようになるというのが一つの方向性となる。新興国の人びとが乗っている大量のバイクには見えないストローがついていて(原発ほどの極太ストローではないが)、タイヤの一回転ごとに富をチューチュー外国に吸われている。

自前の資源でなんとか作れる技術を作り上げれば、その富はインドネシア国民に巡る。バイクではないが、実はインドネシアにはそういう技術導入の実績がある。



現地の資源と人材で回ってしまうシステムは適正技術と呼ばれ、(原発のような)高度な技術ではないが十分にニーズを満たす。上掲の本ではヤシを使った排水処理システムの例などがあり、読んでいるだけでワクワクする。

なにしろヤシは、インドネシア中にそれこそなんぼでもあるのだ。これを使って水をきれいにするというインドネシア喫緊の課題を解くなんて、なんてスマートなんだろう!

風の強い日など、上から巨大な葉が落ちてくる!これが勝手に育っているのだ
それに、そもそも自国に複雑で高品質なモノを作れない、あるいは作るエートスが伝統的にないなら、作る必要がないのではないか。

輸入に頼るのが問題なのなら、輸入物品を使わずにすむ、「近代社会ではない社会」を作ればいいだけだ。

例えばセル・シティという、いわゆる先進国でも先端のコンセプトがある。バイクで常に移動しなくても小さな範囲に必要なものがすべて入っていれば、自転車で十分なはずだ。

バイクが必要な局面を洗い出して、それが近くにあったら?と想像してみるのだ。恐らく、バイクはシェアしてたまに乗るだけで済むようにすることは可能だ。

ただしそれはバリならバリの文化や伝統的システムと親和的でなければならない。既存の高い価値を持つデザイン情報を叩き潰して頭のなかでこねくり回した何かと入れ替えるのは愚の骨頂だ。

これはバリだろうか?
町に”WiFiカフェが必要だから” の名のもとに、バリの文脈と関係ない無機質な店舗を入れてしまうと、そもそも誰も来なくなってしまう。ものすごい距離を越えて人がやってくるのは、無国籍なWiFiカフェでネットが使えるからではない。

■ブランド、デザイン、情報社会
だから、現地の知恵、それがどうシステムを成しているのか、をまず理解するべきだ。バリらしい町並みを作り上げるシステムはどのように成立しているのか。これまで実現しなかった町並みのあり方は、それとどう交響すれば産まれうるのか。

日本でもそういうものを無視したことで、救われる命が救われなかった。津波が来ると分かっているなら、そこを近代技術で無理やり切り開いて住まなければよかったのではないか。そこに住まなければならない理由はなく、売る側の住ませなければならない理由があっただけなのではないだろうか。そんなふうに思う。

近代などという短いスパンを超えた、悠久の時間に耐えた知恵。先人が調和することで保たれてきた自然。そうしたことのすべてが、情報社会で価値を持つデザイン情報なのだ。適正で高質なデザイン情報は、現地のブランドの中で創発する。

私の知り合いのバリの大工は、儲からないけどバリ装飾が好きだと言っていた。町並みを作ってきたことに誇りを持っていた。彼は外人と新たなプロジェクトを始め、バリ装飾を新たな仕方で創りあげようとしている。バリの価値を愛し、新たなニーズを伝える外の目が、その動きを創発させた。

前述のヤシを使った適正技術も同じことだ。輸入品なしには成り立たない、自分たちにとってブラックボックスでしかないシステム運用に本気になれる人はいるのだろうか?適正技術は、単に物質的に持続可能である以上の意味を持っていると思う。現地の人が仕組みを把握し、自前の資源でメンテナンスし、運用する技術は、現地のブランド・マークを付けるに値するものだ。

だから資源切り売りを続ける必要もなければ、ムリにやりたくないモノ作りをする必要もない。したいことをする、作りたいものを作る中で、インドネシアはインドネシアらしい情報社会を創っていけるはずだ。本当に作りたいものとは何か、誇りにしているものは何か?ブランドが、人をその問いに導く限り。

続く
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再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)



※この記事は、

インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)

遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)

の続きです。


植民地は何より人の心に宿る。植民地の奴隷は憎悪や搾取を愛と言い換え、お前に正しいことを教えてやる、お前も同じになれと迫る。自分がそうされたように。

植民地は一度作られてしまえば世代を超え、宿主を変えて再生産される。だから、伝染されない社会的領域が存在することはとても大事だし、その領域を徹底的に護り育てなければならない。

はっきり言うがインドネシアは、固有の文脈も何もない、もうどうでもいい汚いだけの町も多い。しかしインドネシアはとても広い。そんな町から1時間も離れれば、伝統的な家並みが残る、自然豊かな地域も多く残る。ただし残念ながら自然、特に水は汚染されていることが多い。

スマトラの伝統古民家は釘1本使わずに建てられている
スマトラの伝統的家屋が立ち並ぶ界隈
そういう領域の文化を護り、自然を回復する。そうすることで社会は植民地化を逃れる可能性を得る。その誇りある動きの中にブランドは立ち上がり、さらにその誇りを励ますからだ。

■再植民地化に背を向けるインドネシア
豊かな資源を持つがゆえに、ともすればオランダ病に傾くインドネシアは、一つ間違えば坂道を転げ落ちるように、より直接的な経済植民地への道を辿りかねない。

※オランダ病とは、資源国が、資源の切り売りだけに依存し、自前で何も産業が作れない状況を指す。高じると外国企業への隷属や資源の枯渇、その後の大破綻を引き起こす。

自らの資源を枯渇するまで自分で収奪し続けるのか。しかも、その技術を持つ外国企業に入り込まれて、収奪した上前をとことん搾取されるのか。
  • 自前で作れない超巨大・高額技術、
  • しかもよりによってまったく未来の無い原子力技術に、
  • さらによりによってエネルギーという国の根幹を依存するなど、
その不毛な選択肢の究極形といっていいものだ。このニュースが伝える決定は、インドネシアが再び馬鹿者どもの植民地となることを拒否した、ということも意味するのだ。

そして自らの国土を守る決断は、モノ作りが終わった後の時代にまで生きるものだ。

モノが行き渡ったときに、まだ残る美しい自然、文化。それは世界中の金持ちを惹きつけ、もうモノ作りでは稼げない経済システムを文化立国へと転換させる。

バリがこの文化と景観を維持し、自然を、殊に水質を回復できたら、おそらくその典型的成功例となる。

バリの美しい緑には、大量のプラスチック・ゴミが隠れてもいる
エネルギーを湯水のごとく使えない状況は、そういう意味ではむしろプラスかもしれない。これ以上、汚染の進行にエネルギーを与える必要はない。制約の中、あほのようにエネルギーを浪費しなくても幸せに生きられる、そんなライフスタイルや、それを支える創造的な産業が生み出されるかもしれない。

豊かな資源がありながら浪費しない。ゆるゆると近代技術を入れ、辛い労働から人を解放しつつ、急激な変化で文化と自然を破壊しない。

それが何百年と続く王道楽土ではないだろうか。インドネシアには、それだけのポテンシャルがあるのだ。



■学習のエートス
そして植民地化を拒否した社会が何より次代に遺せるのは、自分で考え、コミュニケートし、学習し続けるエートスだ。

一つ、その萌芽を示そう。

インドネシア、レジ袋の有料化へ ゴミ問題解決が課題
http://bali.keizai.biz/headline/29/

ここに、”美しかったバリの景色がプラスチックゴミに汚染されていく姿に心を痛めた””バリ人の姉妹が始めた運動「バイバイ・プラスチック・バッグス」”が紹介されている。

バリ人の若い世代が始めた、ということが重要なポイントだ。

この社会は思考し、学習し、コミュニケートし始めた。自らの心の声に耳を傾け、価値あるものとは何であるかと問い、不都合な真実にたじろぐことなく行動を始めた。

ここでメタに示されているのは、バリ・ブランドとは何かという問いだ。人々の持つ既存の価値基準では、彼らの感じ取ったバリの価値を示すには不十分だと言っているのだ。

ブランドなき社会では自分に向き合い大きな流れに疑問を呈すると、脇目をふらずに言われたことをやれ、と圧力がかかる。しかしこの社会は、それを”脇目”と呼ぶことなど許しはしないだろう。自分の感覚を深く汲み取り、向き合い、思考する。互いのそれを守りぬくことこそが、プライドの源泉であり、ブランドの本質なのだ。

バリの価値は何であるかを問うことは、バリ・ブランドが存在する社会では重要な事だ。だから若者が州知事に何度も直談判できるほどのコミュニケーションが巻き起こる。ブランドが価値を問い、想像し、さらに創造するコミュニケーションを吸い寄せる、求心力となる。それは必然的に、学習し続ける社会でもある。

インドネシアが回避した植民地化とは、こうしたことの全てを売り渡すことである。感覚を遮断し、思考停止しなければ、原発など入れようがないのだから。

続く

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遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)



※この記事は、

インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)

の続きです。


植民地化されたブランドなき国で、人々は価値が何かを問うことを許されず、与えられた物語に没入することを強いられる。

どのようにしてこんなことが始まり、何十年と維持されるのだろう?


”繁栄という名の、そう繁栄という名の、繁栄という名のテーマであった”

■”それでいいんだ”
私たちを取り囲む中身の無い物語が、誰の、どのような動機で、どのような手段・経緯で作り上げられたかはもう詳述しない。ポダム、マッカーサー、大統領選、昭和の妖怪といったワードを調べるとなんとなくその起源が浮かび上がるだろう。



それぞれの無責任でさもしい動機が絡み合う中、人々を振り回すむちゃくちゃな搾取システム――植民地――は総括されることなく維持され、さらに作り上げられた。

人々は、自分たちの持つ恥知らずな村八分のエートスを見抜かれ、CM経由で垂れ流されるイメージで相互監視へと追い込まれていった。

これに追随すればムラで一人前の顔をしていられる、しなければ陰湿な村八分が待っている。

そうなることを操作者たちは知っていた。さらにムラの中にしがみつく人間には、それなりの報酬も娯楽も与えられた。仕事で何があろうと家庭には持ち込まず、ビール片手に観るナイターでジャイアンツが勝てばそれでよかった。


”かしこい僕たちは、愉快な人生を送ろう”

しかし人々をこのアメとムチのシステムに没入させる上で、もっとも有効であったのはやはり日本ブランドの破壊であったように思う。「仕事」の名のもとに次から次とダムで、護岸で、金融で日本を叩き壊す、その実行犯にさせられること。

実行犯たちは、薄々何をしているか分かっている。しかしそれを考えることは許されない。これは人間にとって、本来耐えられないひどい仕打ちだったのではないだろうか。

酒を飲んでいた時、国土開発を国から請け負う会社の社員が酔った挙句にこんなことを言った。

「そのシステムはここの農地に水を供給するために必要ということになっている。そのためにその地域の人々は追い出される。でもそんな農地自体が存在しないことなんて俺は知ってる。だけど俺は自分の技術でモノがちゃんと作れたらもうそれでいい。それでいいんだ!

自分にはそれが悲鳴にしか聞こえなかった。

■遠い日の忘れもの
自分のやったこと、やる上で深く考えることを避けたこと、感じていた違和感を無かったことにしたこと――そんな自らの卑怯な振る舞いに、本当に平気でいられる人はいない。しかしそれが山と堆積したとき、人はそれを直視できなくなる。

しかもそこで人々がそうと知らされぬままに破壊したのは、日本人に「大切な価値とは何か」を考えさせる、日本ブランドだった。

この美しい島国の海岸線の3割はもう、コンクリートに覆われてしまった。沖縄の西岸もダムの残土の処理と、ダムと護岸の2重の利権のために使われ、美しい海岸線のほとんどが「安全」になった。そんな話を聞いたことがある。さもありなん、と私は思う。

自分の感覚を遮断させられ、それでやらされることは、そこから回復するためのリソースを自分の手で叩き壊すこと。このグロテスクさは、まさに植民地のそれだ。

圧倒的な絶望の中、精神の崩壊を防ぐためやがて感覚は無意識に潜る。自分が何に加担し、他ならぬ自分がそれをどう感じていたかはもう意識に上らない。

遠い昔に何かいろいろ考えていた気がする。でももうそれが何だったかは忘れてしまった。きっと卒業すべき青臭いことなのだろう――なぜそう思うのかは分からないが。

「自分に向き合わないために仕事をする」「仕事をしていればお互いに後ろ指をささないことにする」無責任なシステムがこうして出来上がる。

■繁栄という名の
システムは、魅力的にウィンクしながら「大人になれよ」と耳元で囁く。「これは破壊なんかじゃなく時代の流れで、君に責任はないんだ」。何を言っているのか分からないが、君は無理して少し笑う。やがて無理しなくても笑ってみせられるようになる。

それでも君はときどきあえぐように空を仰ぎ、これは何だと問いたくなる。

システムが再びウィンクして、TVを指差す。「言ったとおりに頑張れば、CMの中のものが全部手に入るじゃないか。人間扱いしてもらえるよ」。気晴らしを手に入れて、君はまた少し何かを忘れる。

いつも何かの脅しを、あのウィンクは含んでいる。お前が何を手に入れようと、何が正しいかは決めさせないと言っている気がする。

空は鉛色に覆われる。その向こうに何かが隠されたようだが、もうそれは遠く見えない。

植民地の支配者が密かに笑う。

そうして数十年が経ち、君はCMの中のモノをすべて手に入れた。なのに、どうも日本は破綻するらしいと聞かされる。そんなことがあるわけがないと、君は笑う。なぜそう言えるかは分からない。これまでそうだったから。これまでも根拠など――自分など――ずっと無かったのだ。

くだらないことを忘れ、君は子どもを何とかして東大に入れる算段に頭をひねる。

子どもが空を仰ぎあえいでいるような気がする。その弱さを君は憎む。「克服せねばならない」と君は囁く。



子どもは当惑して君を見上げる。

「頑張ればCMの中のものが全部手に入るじゃないか」と君は言う。

遠い日に忘れたものを取り戻せばいいのに、と私は思う。目の前の子どもが、それが何かを見せてくれているのに。

続く

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2015年12月22日火曜日

ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)



※この記事は、

>> インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

の続きです。


■日本ブランドは存在したか

モノもブランドも、人間にとっての価値という意味では同じものだ。しかし前者はいずれそれ以上いらなくなる。売上が頭打ちになり、それでも無理やり同じことを続けようとするために破壊的になる。

”(資本主義は)もう、すでに終わっています。それを終わっていないことにしようとするから、いろいろなところに弊害が出ているのです”(日本の財政破綻は起こるのか起こらないのか ギリシャ問題を機に日本の財政を考える

それは一言で言えば、本当にはいらないもののために人や文化を含むあらゆる資源がつぎ込まれ、いずれすべて枯渇し破綻するという、これから日本が突入の気配濃厚なシナリオだ。

だから、モノ作りの後の世界で、無限の価値を産み出すブランドは、経済面だけ見てもとても重要だ。

ところで日本が日本ブランドをどう扱ってきたか、その結果どんな状況に追い込まれているかは、外からの目が的確に捉えている。

”京都はフィレンツェのようなイメージだったが、祇園でも町家とビルがごちゃごちゃで統一感がない”(「京都人、感性細やかだが閉鎖的」 外国人クリエーター語る
”日本の観光客は増えていると言いますが、せいぜい1000万人を超える程度で、フランスの8分の1くらいにすぎません。しかも内訳は台湾や中国など、近隣のアジア諸国が大半です。ヨーロッパから日本に来る観光客の数は約100万人。数千万人を集める観光大国と比べると、いないも同然なのです”(英国人アナリストの辛口提言──「なぜ日本人は『日本が最高』だと勘違いしてしまうのか」(3)

モノ作りが終わった世界で、日本人に飯の種は残されているだろうか。日本は残されているのだろうか。

仏閣をアスファルトと電線が遮り、交通標識が指差す

日本の高度成長は、最初の10年は意味があったという説を聞いたことがある。そしてそこで止まれず、与えられる大きな物語に没入し、その後はパワフルに国土と未来を喰い潰し続けた。そこに”自分の本当に望むものは何か”という問いは無かった。

以下の番組で為されたという対話はこの辺りの事情と、多くの人が陥る典型的曲解を、正確に示している。

戦後70年 ニッポンの肖像 プロローグ 私たちはどう生きてきたかhttps://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150101_2

確かこんなのだ。
堺雅人「戦争に負けた日本人が経済戦争では勝ちたいと思ったのでは」
タモリ「自分と向かい合うのを避けるためだったんじゃないか?それが人間にとって一番つらいこと。働いていれば誰も後ろ指ささないもんね」
してみると「日本」は他ならぬ日本国民にとって、ブランドではなかったのだろう。

■それは日本ではない

この日本の町並みをノー・ブランドにしかねない民間活動の破壊性は、未来を失わせるという意味で国の財政状況とも重なるものだ。

どう考えてもこの財政状況の先にあるのは破滅的なインフレだ。それを食い止めるためにマイナンバーで徹底的に富を捕捉して吸い上げても、おそらく焼け石に水だ。それはインフレではなく直接吸い取ってリセットするということでしかないし、リセットしてもまた同じ状態になる。

何も考えることなく恐ろしい勢いで富を吸い込む、シロアリ・システムがそのままだからだ。

最近で言えば、オリンピックの費用はついに2兆円を突破する見込みという。これを最初の見積もりが甘いからと考えるのは、お人好しが過ぎるのではないか。

東京五輪の運営費1兆8000億円 当初見込みの6倍http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151218/k10010345771000.html

最初から、この規模の利権にするつもりだったのだ、と考えてみる。正直にそう言ったら大反対が巻き起こるから、本当の目論見の1/6などという大嘘をこいた。

あるいは本当に6倍にも費用が膨れ上がっても何もできない愚か者が、この規模のプロジェクトを仕切っているということなのか。

これをどう考えるのが自然だと思うだろうか。いずれにせよ、インドネシアの脱原発と対照的なシロアリ・システムの面目躍如であることは間違いない。



この調子で行くと、国民の資産は食いつぶされ、救うことのできない、切り捨てるしかない貧困が民間に溢れだし、やがて破綻が訪れる。一気に崩れるのかゆっくり全面化するのかは、分からない。

そうして99%の国民生活が破綻して、それと引き換えに財政はリセットされるのかもしれない。しかしそこで維持されているのは、政府であって日本ではない。

■自ら何も問わせない社会で

子どもも国土も犠牲にして稼いだ富。「働いていれば誰も後ろ指ささない」に逃げこむしかない、自らに何も問わせない国で、文字通り脇目もふらず働き蓄えた富はしかし、政治経由で、恐ろしい勢いで宗主国に吸い取られ消えていった。

バブル期に何の意味もなく、あるいは凄まじい破壊とともに移動した富の多くは、無為に宗主国に上前を撥ねられた。宗主国が ”借りた” 凄まじい額の借金は、為替の操作により4割が棒引きとなった。



とんでもない高額で買い取った海外の資産は、怒りと嘲笑を得た上で、バブル崩壊とともにとんでもない低額で手放すこととなった。

その陰で、例えば京都の貴重な町家は次々とアパートに変わった。天井知らずに上がる相続税に、オーナーたちが震え上がったからだ。

銀行員が「現実」を告げてはオーナーを怯えさせ、借金と投資を促す。でもその状況は、その銀行自体が作り出しているのだ。そしてそのお金を受け取り、 ”仕事” をしたゼネコンがあり、工務店があり、職人たちがいた。

何の意味もないが、強烈なスピードで決裁の書類を回すだけでお金が儲かるように思えた。調子に乗ったエコノミック・アニマルたちの余剰の資本が宗主国も席巻したように見えた。そしてその多くを結局奪い取られる中、日本ブランドは毀損され、町並みは無国籍で安いモザイクとなり、日本を訪れた外人を幻滅させることになる。

「コンクリートの田舎に、誰が帰りたいの?」 古民家再生の第一人者アレックス・カーさん、地方創生を語るhttp://www.huffingtonpost.jp/2015/07/11/alex-kerr-chiiori-japan_n_7777752.html


最近では沖縄の美しい海を破壊して、1兆円を差し出すらしい。バブルというネタすらない、直接的な破壊と上納だ。その陰にも、もちろん ”仕事” を受注する日本人たちが蠢いている。



このシロアリから宗主国へと至る、富を無限に吸い込む大穴。もちろんそれは大穴がその先に口を開ける、与えられた馬鹿丸出しの物語を、疑うことすらしない社会にだけ存在する。

その社会では、誰も彼もが「与えられた物語」を疑うどころか、その中のポジションだけを気にしている。

東大と大企業に子どもを送り込むことに血道を上げ、自分の自意識を満たす道具にする、卑しい親が続出する。外との比較に余念が無く、自分が何者なのか振り返る余裕などない。

職場ではポジションを死守するためだけに脇目もふらず働き、その仕事が何をもたらすのか考えることもなく、よく回る舌で次から次と捏造した口実で、国土と文化をコンクリ漬けにする。


この世界にも稀な文化を、コンクリートとアスファルトの安いモザイクに埋め込んではならない本当は。

さらにそこで稼いだ金だけでは飽きたらず、子どもに凄まじい借金を背負わせてまでもシステムに差し出す。

オリンピックの2兆円も、辺野古の基地の1兆円も、年金運用損の10兆円も、同じことの線上にある。金も国土も犠牲にし、将来に破滅的なツケを回し、植民地の支配者にすべてを差し出す。その裾野に、これも「仕事だから」と ”貢献” してはばからない大量の大人がいるのだ。

■ブランドと植民地化

価値あるものへの問いを産み出すブランドは、資本主義を含む経済システムを下支えするものだ。それはロゴマークに高い値が付くということではない。価値あるものを真剣に考えるコミュニケーションに沿って、富が移動することに本質がある。値段はそれについてくるものに過ぎない。

だから、日本ブランドが何であるのかになど全く関心を示さず、言われるままに踊ってみせることで自分の処刑の順番を遅らせてもらって安心するだけの社会に、プライスはついてこない。タモリの”自分と向かい合うのを避けるために仕事をしてみせる大人たち”という指摘が重く響く。

価値とは何かを真剣に、自らに問うことなく、与えられたストーリーを飲み込んで、誰が一番よく飲み込んだかに応じてポジションを与えられる。それは奴隷だ。

ブランドなき社会が貧困に陥るのは、高く売れるモノが無いからではない。プライスの源泉となる価値を自ら掲げることを許されない、搾取されるだけの植民地だからだ。

だからこれだけ利権に文化も国土も蹂躙され、外人に呆れられるのだ。

自分は本当は何を大事だと思っているのか?

そのように”脇目”をふることを許されていたら、それを許されぬことに当たり前に怒れていたら、そんなコミュニケーションが巻き起こるブランドが存在していたら――こんな植民地化は起こらないのである。

続く
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