2017年7月17日月曜日

一と全のゾーン――転回するパーマカルチャー(2)



パーマカルチャーにゾーニングという考え方がある。
自分の住んでる家をゾーン0とし、合理的に区域をデザインしていく。

人間が手をかける必要があるところは近くに、その頻度が少ない順に遠くのゾーンとなり、一番遠いところがゾーン5となる。
そこは人の手を付けず自然そのままにしておく。

>> パーマカルチャーの倫理・原則 | Permaculture Center Japan
家庭菜園はゾーン1

それによって労力が合理的に省け、同時に獣害なども減らすことができる。
獣にはゾーン5があり、そこから追い出されずにすむからだ。
有用な益虫の供給元にもなり得る。

しかし今回お会いした石垣のパーマカルチャリストさんが教えてくれたのだが、近年ゾーン00というものが新たに出てきたという。

この新しいコンセプトには、パーマカルチャーをより深化させるものが含まれている。
パーマカルチャー世界は「わからない」という大安心を取り込むようになる。

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■ゾーン00という転回

ゾーン00はゾーン0に住まう人間自身のことを指していて、脳を上から見た形にも模して”00”となっているらしい。

>> いつでも、どこでもパーマカルチャー:ゾーニング「00」
上記ブログより引用>

哲学的には現象学的領野を理論に取り込んだということでもあり非常に興味深い。

パーマカルチャー自身への視線

そして全ての起点としての自分自身をモデルの中に入れたというのは、前回書いたNVCや仏教思想と組み合わせようとする動きと軌を一にしている。

やはりパーマカルチャーは今、自らについて何かを嗅ぎ取っていると感じさせる。

そこで気付かれているのは恐らくパーマカルチャーの抱えた矛盾であり、それを乗り越えようとする中にNVCも仏教思想も、ゾーン00もある。

ただゾーン00が他の2つと違うのは、それがパーマカルチャー自身の更新であるということだ。

この更新はかなり根本的なものだ。
ゾーン00が存在することによって、視線は外部世界を向かない。

何か言いたいのならまず自分自身に視線を向け、その自分が作り出した認識として世界を語らねばならない。

もちろんパーマカルチャー・デザインもその中に含まれることになる。

現れる問い

これは極めて仏教的、あるいは現象学的な営為である。

今そのように見えている世界は本当にそのようなものなのか?
それは自分のあり方と関係的に、そのようなものとして成立しているのではないか?
それは自分の何と関わっているのか?

視線の方向が変わることは、そのような問いを可能にする。

視線そのものが意識の俎上に上がってくる、とも言える。
自らの視線の質が問題となるとき、人は自分に向き合っている。

それは「あなたは環境を汚さないよう自己統御できているか?」といった問いを、まったく逆方向に転回させている。

それで、「自分は何をしたくて、それは何故なのか?」

■「わからない」ということ

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パーマカルチャリストがよく口にし、普及を目指してもいると思われるホリスティックな世界観がある。

ゾーン00はそうした根本的なコンセプトにも息を吹き込む。

信じることと「わからない」こと

自分もホリスティックな世界観を信じている。
たぶんそうだろうなーと思う。

どう考えてもそれが合理的な帰結であり、合理とは要するに様々な直接・間接の経験の辻褄である。
それらをある一面で切り取りつなぎ合わせた体系の地平であり、その表現である。

しかし同時にそれは――そうとしか思えないことの体系なのだから――常に「結局はそうなのかどうなのか分からない」という大前提のもとにある。

存在論的に言うなら、あらゆる認識された存在物は、感覚の告げ知らせによって存在することになったものにすぎない。

この根源の事実に背を向けたとき、「正しいこと」が世に立ち現れる。

信じるものの無い世界

前回書いたように、それは「真」なるものであり、ヒトラーが振りかざしたものと同じ不自然で気持ち悪いナニカである。

>> 「真」なるものを超えて――転回するパーマカルチャー(1)

あの独裁者の生涯を思い返したとき、当たり前の事実に背を向ける不自然な所作が何から出てくるかが分かる。

自分の感覚を信じてはならないと遮断すること、すなわち虐待がその導きの糸となるのである。

そこでは合理と自然が相反するようになる。

ナチズムがそうだったが、身近な例だとブラック労働がその組織の合理であることを考えると分かりやすいかもしれない。

本当に信じるものはなく、すべてが「既にわかってること」で構成された世界がそこに立ち現れる。

それぞれの漂着

ホリスティックな世界観は、こころの自由ゆえに自ずと胸いっぱいに満ちてくる感覚を、これはなんだろう?と自然な辻褄をつらつら考える中で現れた一表現なのだろうと思う。

であるならば、「正しい」ホリスティックな世界観を人が飲み込むよう操作しにかかるのは、あまりホリスティックではない。

本当に”そう”なら、本人の感覚を邪魔しなければ、いずれ勝手にみんなそうなる。

それぞれが勝手に迷って辿り着く所に漂着すればいいのだし、その中で自然と体現されているのがホリスティックな世界である。それを邪魔すべきでない。

■パーマカルチャリストの憂鬱

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パーマカルチャーを活発に実践していながら、なぜか鬱に落ち込む人もいるという。

それはホリスティックな生き方を何らかの形で否定され、苦しんでそうなるのだろうか。そういうことは確かにあるのかもしれない。

しかしそのような人びとが「正しいこと」をプリーチしようとしている、と考えると別の可能性が見えてくる。

それは彼らのゾーン00に寄り添うことで見えてくる視野だ。

ゾーン00に寄り添う

鬱に落ち込んでしまうパーマカルチャリストは、社会を変えようとして歯が立たなくてがっかりしているのではないだろうか。

そして社会を操作するためにやたらとポジティブな演技をしてるうちに、本当の自分との乖離に耐えられなくなるのではないだろうか。


”Papa don't preach.. Don't you stop loving me daddy”

実践していることもまた演技に合わせて過剰で、本人のnatureからするとやたらストイックで不便なものになっていないだろうか。

ホントは今の演技されたライフスタイルよりたくさん電気を使った、キンキンに冷えたビールを飲みたいのではないだろうか。

だったらそうすればいいのである。

他者より自分を見つめる

自分の感覚を置き去りに、借りてきた正しさをやたらポジティブに、あるいはしかめっ面をしながら他人にアピールする生活が延々と続く。

それで鬱にならないほうがおかしい。

自然はただひたすらに自らであろうとするだけで、私たちを操作しようとしない

てゆーかね、

「これ素敵でしょう?」とはしゃいで見せながら、
その実、心の中で「これでやっと相手もこれの正しさが分かるだろう」などと考えて、
こちらがそれを飲み込んだかどうかじっと観察しているとしたら、

ふとその顔つきに気づいたとき私たちはゾッとするんじゃないだろうか。

それで、このような人びとは果たして本当に、自分のしたいことをしてるだろうか?

「何をしたくて、それは何故なのか」という、ゾーン00の視点から考え直してみる意義がここにある。

■NVCとパーマカルチャー

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このようなことはもちろんパーマカルチャーに限った話ではない。

自然農だろうとヒッピーだろうとヴィーガンだろうと、自信の無い人が自分の自信の無さを埋め合わせるためにやってるのであれば、結局それは愚かしい上から目線の「正しさプリーチ」に帰結する。

責任を問う側に回ることで、自信のない自分を見ずに済ませたいのである。

それは不自然で、愛情の欠片も無い行為である。

本人がやはり同じ行為に晒されてきたのだろうと思うし、何より自分に愛情を持てていない。

Never walk when you can dance

NVCに関する以下の動画を見てほしい。
NVCの提唱者、マーシャル・ローゼンバーグのセミナーの一部のようだ。



ここでローゼンバーグの祖母が"never walk when you can dance"と言うとき、彼女は正しい私を仰ぎ見よ、と言っていない。

これは命令形であっても他人への命令ではなく、自分はこれが大好きなんだ!という表明である。
歩かず踊れ、ではない。踊るのは楽しいよ!と言っているのだ。

これはこの動画の歌に出てくる、他のあらゆる命令形の言葉と共通する通奏低音だ。ここに鍵がある。

シェアするということ

石垣でお会いしたパーマカルチャリストさんはカフェなどでNVCのセッションをやったりもしている。

しかしそれも先生としてではなく、自分と参加者の学びのためにやっている。

原発事故後いろいろと自分で勉強して発信してたらセミナーにスピーカーとして呼ばれたことがあるらしいのだが、そのときも「専門家でもなんでもないのに」と違和感が半端なかったらしい(笑)

その態度は、パーマカルチャー農園を含む多くのオーガニック農園がNVCなどを通して精神性を取り入れようとしているのと軌を一にしている。

「正しいひとの正しい教え」は厳しく言うのでも何でもなく、単なる暴力だ。

結局似たような結論になるとしても、それは本人の紆余曲折を経て掴み取られるものである。
結果が似たようなものに見えても、その内実は人それぞれにまったくちがう。

だから、”最初から分かっている正しいこと”をコピーするのではなく、それぞれの”それ”を分かち合うとき、そこに学びがある。

シェアとゾーン00

分かち合うとは子どもが「僕、これが好きなんだ」と恥ずかしそうに見せてみる、そういう瞬間のことであって、「これが正しいのにあなたは分かっていない」と相手を操作し正しさを埋め込みにかかるのとはまったく違う。

石垣の農園で、種を分けてくれた

自分が矢面に立たずに済む、全員の外にある正しさが指し示されていること、自分ではなく相手が主語になっているところに、それは端的に出ている。

自分を表現する自分がおらず、相手の感覚を顧慮することもなく、天下りの正しいものだけがある。

それはゾーン00がどこにも無い世界である。

だから非暴力なコミュニケーションとは、ゾーン00とともにある何か、としか思えないし、石垣のパーマカルチャリストさんがパーマカルチャーとNVC両方やるのはとても自然なことに思える。

■”オールオーケー”

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「自分が言ってるんじゃない、これは正しいから正しいんだ」と言うとき、人は無限に無責任になれる。

最悪そのせいで人が死んでも、それは「正しいこと」であって自分の責任ではない。

例えば原子力ムラなどと呼ばれるところで飛び交うコミュニケーションとはそういうものである。

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また、そのような「正しいこと」を敢えて言わずに喉に押しとどめ、提示に留めたとしても同じことだ。

暴力を内に孕んでいたらそれは暴力であって、表面上ごまかして騙しているだけだ。

演技から本質へ

何かの正しさを押し付けプリーチしたい自分のあり方が問題なのであって、それを直接表現しないからそれでいいわけではない。

我慢してたってそれは伝わるし、どうせ我慢できずにどこかで「お前はダメなやつだ」と暴力を振るい始めるのだ。

自分は昔、赤目というところで自然農の学びの会に通っていた。

そこで指導に来ていた川口由一さんを思い出すのだが、彼は指導というより、本当にそれを楽しんでいただけだった。
正しいことではなく心から信じることをやっていた。
ローゼンバーグのばあちゃんのように。

自分の自然へと

川口さんの姿は言葉にするなら、それでオールオーケーだ、と伝えていた。

もちろん本人にそんなつもりはない。
なのにそのようにコミュニケートされているのだ。

自然な自分のあり方から自然に溢れ出るもの。それで繋がる。

それが全てで、その先に何があるかは問題ではない。
それは誰にもわからない。

わからない結論を先取りする必要はないし、できない。

■汎神化する世界

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「一にして全、全にして一」という言葉がある。

古代ギリシャの宗教詩人、クセノファネスの「すべては一であり、一は神である」が元であるらしい。

これは自然農の思想にも似ている。

一体の自然

福岡翁が神というとき、それは自然も意味していたが、魂からの声を遮る様々なノイズ――歪んだ人格と言ってもいい――を無とするときに、自らはどこまでも個でありつつ、その神または自然と渾然一体となる。

それは自分を失うということではない。
自分が失くなったら、もちろんその一体の感覚も無くなってしまう。

そうではなくて、自分は自分でありつつ、世界と素通しになるのだ。
世界の喜びと痛みをともに分かち合う存在となる、というよりもともと、常にすでにそうであり続けていて、今もそうであることを思い出すのだ。

無数の生命が踊る自然農畑を前にすると、

個としての「私」がその中の一個の生命として有機的に繋がり合い、
それによって数多の生命たちの全てのあり方をつくり出していて、
同時に他の無数の個が「私」のあり方をつくってもいる、

そんな感覚に襲われる。

石垣で見せてもらった不耕起草生のパーマカルチャー・ガーデン

クセノファネスが要するに「すべては神だ」という汎神論的なことを言うのは、たぶんこの感覚を表現している。

存在理由はいらない

どこか外部にいる神がジオラマのように世界を作り、「ここにいていい人」を判定するルールを制定したのではなく、存在する全てが存在理由など何も必要としない神なのだ。

そのような感覚は、あるいは認識は、どこから来るか「わからない」
わかる必要はない。

ただ端的な現実として、その――言葉にすればホリスティックな――世界が立ち現れる。

それは存在することに言い訳は必要ないという大安心が、胸に溢れる世界である。


”しあわせになるのにはべつに、だれの許可もいらない”

■一という全て

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パーマカルチャーのゾーニング原則に「00」が挿入されたことは、どこかホリスティックでなかったパーマカルチャーに、この「一と全」の理路を与えた、とも言える。

この更新によって自分自身であるゾーン00と、自然のままとされるゾーン5の間のすべてが、実は世界であり自然であるとわかる世界が見えてくる。

エッジがあり、そして無い

全てのゾーンがそもそも「神または自然」そのものだとしたら?
それがゾーン00から溢れ出る何ものかであるとしたら?

そうしてパーマカルチャーは全ゾーンを一つのホリスティックな世界に/として、組み入れ/取り込み直す。

ここで「一つ」とは


  • それぞれの個が持ち、かつ分かち合われる無数の世界のひとつ、という意味でもあり、
  • 自らの世界感を身に醸し出す個々が有機的に繋がったネットワークとしてひとつ、


という意味でもある。

「世界」とは何らかのフィードバックを期待しつつデザインされたサイトを差し入れる先でもあり、サイトとその外部の間のエッジを含め、あらゆる境界のない全体でもある。

ゾーン00の動的な視点

その一つと全体はすべて同じものを別様に観たものに過ぎない。
ゾーン00は溢れ出たものに従って想像の翼を広げ、様々に視点を変えるのだ。

その多様でひとつの世界がほんとうのことであるなら、その世界を生きるゾーン00だけが、ほんとうに意味のあることをすることができる。

雑草の中の長命草
その生きられた世界ではデザインで意図した以上のことが起きるが、世界がわからないことは大安心であるのだから、それをただありがたく受け取ることができる。

そしてまた自分が世界に/としてフィードバックを返せばいいのだ。

「わからない」を楽しみ、それに支えられて自分を含む全ての「個」と有機的に反応しあうことを楽しめるとき、それが勝手に分かち合いとなる。

分かち合われたときに常に既に存在したものとして「全て」が立ち現れる。

境界のない全体が在ると「わかって」いるとき、それをわかる「自分」もまた存在している。

■パーマカルチャーの体系的変容へ

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そのようなデザイン以前の、「一と全」の世界感覚を、パーマカルチャーはゾーニング概念のなかに織り込もうとしている。

デザインはその感覚から溢れ出る、正しい裁定者を必要としない、アドホックで有機的ななにものかとなる。

少なくとも、ゾーン00概念を新たに差し入れることによって、そういったことをあれこれ考えることを可能にする。

NVCや仏教思想で補完するのとは違い、ゾーン00というパーマカルチャーそのものに追加される新たなカテゴリは、パーマカルチャーのゾーニング以外の部分にもアップデートを促す可能性がある。

それは恐らく前回書いたような自然への回帰をベースとし、「わからない」安心のもと固有世界を分かち合うコミュニケーション態度への変容へと道を切り開くものだと思う。

少なくとも自分はそうなるほうに賭ける。


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