2017年7月16日日曜日

「真」なるものを超えて――転回するパーマカルチャー(1)



今年の2月頃、石垣島でパーマカルチャーに取り組まれてる方に会いに行ってきた。

海宙工房というのを主宰されている、パーマカルチャーとともにNVC(非暴力コミュニケーション)というのにも力を入れているサーファーさんであった。

海宙工房  パーマカルチャーデザインファクトリー Misora Permaculture Factory
石垣の海は本当に美しい
いろいろお話を聞かせていただいたのだが、パーマカルチャーというよりNVCの話題のほうが圧倒的に多かった。やりたいことはパーマカルチャーとのことなのだが、おそらくその本質をコミュニケーションに見ているように思われた。

それは自然農を実践と思想の融合、あるいはある種の自灯明・法灯明として考えている自分にも共感できるものだった。

■補完されるパーマカルチャー
パーマカルチャー農園は研修やボランティアを受け入れているところがあるが、そういうところでここのところ増えているのが、NVCや瞑想など、農法と関係ないものを一緒に学ばせるコースだ。

このパーマカルチャリストさんに教えてもらったのだが、タイ・チェンマイ近郊のパンニャ・プロジェクトというところでもNVCを取り入れている。自分が一度訪問した、同じくチェンマイ近くのMindful Farmはオーガニック農園だったが、朝にサイレント・イーティング、夜は元僧侶でもある農園主による説話や瞑想会をやっていた。

オーガニック・ガーデンと法話の親和性とは
Mindful Farmでの説話は「全ては自分で作り上げてる仮象だ」とか「永遠のものは無い、全て変わりゆく諸行無常」といった話で、仏教思想に親しみのある日本人にはほとんど常識的なものだったが、西洋のワカモノにはかなり印象的だったようで、ヒッチした帰りのピックアップトラックの荷台でずっとその話をしていた。ちなみに俺は寝た(^_^;)

この仏教的前提を受け入れるなら、結局永遠の何かとして把握できる科学的事実というものは無いし、「永遠」の保持体としての自分もない。よく誤解してる人がいるが、諸行無常は科学法則に従って事物のステートが遷移するみたいな浅い話ではない。科学的学説が時代とともに更新され変わっていくという意味でもない。科学法則自体が本当にあるかどうか分からない、仮象なのだ。

そして永遠の可能性があるのは辺縁すら措定できない宇宙そのものであって、その中の個々の個体ではない。もし魂の永遠があるのであれば、それは宇宙と一体の何かでなければならない。その上、本当にそういうものがあるかどうか、結局人間には分からない。だからlive foreverはOASISの歌や信仰の中にだけ存在している。


そういう思考の伝統と全く違う世界を提示するので、仏教法話は西洋のワカモノたちに衝撃を与えたのだろう。

時を超えて在り続ける普遍的な事実は、科学的に措定はできても論理的に証明できない。むしろ事実と呼ばれるものが何であるのかが重要となる。これは極めて西洋論理的な帰結であり、同時に仏教的主張である。

それで、foreverがあるかどうかも分からないなら、permanentなcultureとは何だろうか?それは結局提唱者たちの宗教的告白に過ぎないのか?

この疑問と、パーマカルチャーが外部の何ものかで補完されていることは、おそらく関係している。

■学びをめぐる矛盾~自然との二項対立を超えて~
自分はパーマカルチャーはあまりに天下りに自然をデザイン対象として対象化してしまう気がしていて、自然と自分を対置する視線のあり方に違和感を抱いてきた。その一方で「自らを豊かにし続ける自然から学ぶ」ということになっていて、そんなあり方のままなぜ学べるのかも分からなかった。

学ぶとは自分に変化が起こることだからだ。起こす、のではない。起きるのだ。それはどう考えても様々な事象を帰納した辻褄の中の、論理的帰結だ。

それは自分や自分の見ている世界が複雑に流転し渦巻き離散する宇宙の中で、たまたまそのように構成された何ものかである、という前提と整合する。より正確にはそういう前提があるとしか思えない、と言わねばならない。

その世界観は静的なロジックで構成される、平板な科学的世界とずいぶん違う。しんとした形而上空間に永遠不変の数式が鎮座していて、そこに何とかしてよじ登りそれを手に入れる。知るとは、学ぶとは、そういうバベルの塔めいた何かではない。

「知ること knowing」は記述し得ないものを当たり前に前提していなければならない。研究が足りないから記述できていない、のではない。そもそも記述し得ないのだ。

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どう考えても生きた、あるいは生きられた世界を記述したら、そうなるしかない。

よって知るとは、自分を含む流転が、たまたま自分の中におおきく波立ったことを意味する。宇宙の流転と一体となり、身を任せ、その揺れ動きを身体に感じ続ける中で、ときに大きく身体の中にせり上がってくるものがある。

胸を突く「そうか!」「これが本当のことか!」という感覚。感動と言ってもいい。

それはどこから来るか誰にも分からない。宇宙がどこから来たのか、宇宙の外に出られない存在には分かり得ないのと同じである。

宇宙を自然と呼び替えるなら、何かを知り学ぶ自分は自然と一体である。少なくともそうでなければ、学び自体が起こらない。

そしてそのことに震えるような感動が伴うのは、そのようにできていることは、本当に好運であると思う。生き物が世界を知らねば簡単に死んでしまうなら、生きようとすることには喜びが満ちている。




■永遠の正しさ
逆に言うと、どこかに何にも左右されない視線を持つ「正しいひと」が温存されていて、その視線自体を変えるような、ハッと気づき学ぼうとしている自分の自然な魂を遮断している。そういうことを、パーマカルチャーは少なくとも理論的には抑止できない。

「永遠 perma」といった言葉や、自分と一体の自然を対象として切り離す「デザイン」という言葉が簡単に出てくることは、象徴的であると思う。

簡単に言うと、パーマカルチャーが意味のあることであるとして、それをしたいと思う自分はどこから来て何を望んでいるのか?その自分なしにオーガニックなデザインも何も無いのだから。

例えばヒトラーは貧困層への人気取りのために有機農業を推進したが、そのテクニックを推奨した彼はオーガニックだったろうか?

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第1次世界大戦の戦後処理で騙し討ちに遭い、ドイツは莫大な賠償を背負わされた。いくら働いても賠償に吸い取られ楽にならない、青息吐息のドイツで有機農業は一つの正しい選択だったし、それによって持たざる者たちによるサステナブルな食料生産は確かに可能だったかもしれない。

でもその裏に押し隠した恐ろしい動機ゆえに、ナチス支配下のドイツはまったく持続可能にならなかった。

独裁者は父親に自分を虐待させた社会に生み出され、無意識に死にたがっていた。そのために死を正当化する倫理を打ち立て、全員にそれに合わせた自己統御を押し付けた。

それはもっとも理性的なアーリア人が、不確実に揺れ動く感情を排することで得られる、揺るがぬ「正しいこと」であった。虐殺されるユダヤ人に若いドイツ人が自然に抱いてしまう感情は、弱いものとして矯正されねばならなかった。普遍的な正しさがあるのだから、自らにせり上がる感覚によって自分自身の視線を更新させることは許されなかった。

彼は自分を含め、あらゆる存在が自分の本来を生き、有機的に他者と繋がること、すなわちオーガニックであることを拒否した。

■「真」なるもの
大学院時代に講義で聞いたのだが、このあたりの事情は古代中国思想と突き合わせると非常におもしろい。

「真」という字がある。この文字は道端に具足を付けたまま足を投げ出している、首を刎ねられた雑兵の死体の象形である。「具」はそのまま具足で、その上の「十」は刃物を表す象形であり、頭があったところに何かの武器が無造作に突き立ててある。

古代中国人にとって真なるものとはこのような無意味な「死」でしかあり得なかった。彼らの目には、道端に転がり、しんと物言わぬ死体は、それ以上絶対に変更不可能な、永続する、静的な事実としての死を抱えているように見えた。逆に言えば生きている世界にそんなものは無い、という実感がこの文字の成り立ちに、背面的に滲み出ている。

今はそんな風に意味を取る人はいないが、しかしこの字に何かシリアスな感覚を覚える東アジア人は多いのではないだろうか。

そしてヨーロッパと地続きの中国が、永遠に正しい普遍的なもの、すなわち「真」を完全に静的な死として把握していたことは非常に興味深い。

中国とヨーロッパ世界の間の何らかの文化交流が、深層において「静的な死としての真」をアクロバティックに普及させていたのではないか、と考えてみることには価値があるだろう。中国で漢字が生まれた2千4百年後、カトリック教会は魔女狩りに手を染めた。人間集団が死に倒錯し魅入られる流れは、ナチズムでなくても歴史のどこにでもある。

ヒトラーの言った永遠不変の「正しいこと」は正しく死であった。身体に刻み込まれた虐待の傷跡が、みんな死ね、こんな世界は滅びてしまえと泣き叫んでいた。それに向き合い癒やすことなく、身体反応をねじ伏せて冷静を装うとどうなったかというと、ナチズムになったのである。

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それを思うと、自己の統御や永遠との一体化を目指すかのようなパーマカルチャーの倫理が、自分は何やら教条的で天下りで息苦しいと感じる。世界はもっとダイナミックで、人間などの小賢しい統御を超えて、自分の生を愛してやまない子どものように、弾けるように笑い泣き、走り回っている。

■地上を生きる生命として
自然から溢れ出る生き生きとした感情をねじ伏せて冷静を装うとき、生きた世界は掻き消え、死が訪れる。窒息し喘ぐ魂が、地上にもう存在しない救いを求めて天上を仰ぎ見始める。その一つが、虐待者でユダヤ人の父親が勝手に粛清されてゆく美しいアーリア人の世界である。

パーマカルチャーの思想はどう考えてもそういうものではない。その倫理に謳うように、それは明らかに地上の人びとが自然とも他者とも調和し、地上で幸せに生きることを目的としている。

しかしその説明は同時に、どう考えてもこれまで書いたような限界を抱えているように思う。あるいは少なくとも矛盾している。どこかで、正しい倫理が降臨してきて「このように自己を統御せよ」と宣教しにくるような「天上」を仰ぎ見ているようにも見えるのである。

人はなぜ空を仰ぎ見るのか?
パーマカルチャーは、自然から学ぼうとする自分それ自体を、説明の中に含めねばならない。それを試みる中で、パーマカルチャリストは自然から学んでいるのではなく、自然であることを実は志向していたと帰結するのではないかと思う。そのとき学びは、誰かが頭のなかで作り出したものが上から降ってくるのではなく、地上に生きる自分の中からせり上がってくる。

思想的潮流としてはセカンド・オーダーのサイバネティクスと結びつかねばらならないということにもなるが、そんな小難しいことを考えなくても、パーマカルチャーの提唱者たちが――何を言っていたかではなく――何をその身に感じていたのか、想像してみるだけでもいい。

それは「正しいこと」を知っている人が、この正しいことをやれ、と命令しているようなものだろうか?世間に振り回され、子どもを利用したい変質的な教育ママが「あんたちゃんと考えてんの?」「夏休みは天王山やで。待ったなしやで(オカンとマー君w)」と愚かに子どもに迫るような何かだろうか?

持続可能な社会のための技術思想は、それだけで社会を持続可能にするだろうか?むしろ技術ではなくその伝え方、社会性にこそ、その本質は顕現しないだろうか?

そのようなパーマカルチャー自体への問いの中で、パーマカルチャーは自然へと還ってゆく。その中でこそデザインもまた、ほんとうに(「真に」という言葉遣いは避ける)その場に調和したものになるだろう。

■「真」から自分へ
おそらくパーマカルチャーは、少なくとも理論的に、初期提唱者たちの浸された一神教文化に引きずられたニュアンスを取り込んでしまっているのではないか、と思う。

そしてぜんぜん証明できていないが、一神教は古代中国人の言った死としての真を取り込んでいるかもしれない。少なくとも個々の生命と関係なく存在する「永遠の正しいこと」を措定していることは事実だろう。

live foreverが90年代のワカモノが聴くブリティッシュ・ロックに未だ顔を出すくらいだから、たぶんそれは英国圏の人びとの骨身に染み渡っているのだと思う。これを宗教論争とするのでなく、自然への回帰として捉えることが重要だ。

石垣のパーマカルチャリストさんが言っていたが、NVCとはコミュニケーションの技法ではなくて、自分を見つめることが本質であるという。それは自分以外のところにある「正しいこと」を仰ぎ見るのと対照的で、そうであるならばNVCは仏教思想と非常に親和的だ。

ガーデンの機能の一つは、生産性以上におそらく自分を取り戻すこと
そして一神教圏から出てきたパーマカルチャーが仏教思想あるいはそれと親和的なものに惹かれていることは、矛盾を矛盾と当たり前に感づく魂の、自然な運動であろう。

■自然に回帰するパーマカルチャー
パーマカルチャーの本懐を取り戻すために、パーマカルチャー・サイトは対象化された自然を観察する以前に、「観察する自分自身を見つめること」を取り入れ始めている。NVC的な用語を使うなら、自分のほんとうのニーズを汲み取れるようにならねば、ほんとうに必要なデザインもまた生まれない。

だから、外部の人を受け入れ学びの場としているオーガニック農園が、NVCを取り入れたり、仏教思想とともに農法を伝えようとするのは、おそらく両方同じことを志向している。仏教国であるタイのパーマカルチャー・サイトがNVCを取り入れる動きを見せていることも非常に興味深い。

仏教圏において、あるいはNVCを経由して、パーマカルチャーは文字通りに自分自身にビルトインされた「永遠」を「デザインする」息苦しさから解放されたがっているように見える。人間に――あるいは生命に――関係なく永続し、「これが正しい」と拘束をしかけてくるのは、悪夢の類のなにかである。それは必ずそんなものを知り得ない存在――人間――によってなされる――ナチズムのように。

NVCという新たな言語を得て切り開かれた仏教的領野において、パーマカルチャリストは再び自然と邂逅しているのかもしれない。その「真」から解き放たれた領域で生まれるデザインは、自分と一体の自然のうねりの中で文字通り「生まれた」のであって、「作った」のではないのだろう、と自分は思う。


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