海宙工房というのを主宰されている、パーマカルチャーとともにNVC(非暴力コミュニケーション)というのにも力を入れているサーファーさんであった。
海宙工房 パーマカルチャーデザインファクトリー Misora Permaculture Factory
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| 石垣の海は本当に美しい |
それは自然農を実践と思想の融合、あるいはある種の自灯明・法灯明として考えている自分にも共感できるものだった。
■補完されるパーマカルチャー
パーマカルチャー農園は研修やボランティアを受け入れているところがあるが、そういうところでここのところ増えているのが、NVCや瞑想など、農法と関係ないものを一緒に学ばせるコースだ。
このパーマカルチャリストさんに教えてもらったのだが、タイ・チェンマイ近郊のパンニャ・プロジェクトというところでもNVCを取り入れている。自分が一度訪問した、同じくチェンマイ近くのMindful Farmはオーガニック農園だったが、朝にサイレント・イーティング、夜は元僧侶でもある農園主による説話や瞑想会をやっていた。
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| オーガニック・ガーデンと法話の親和性とは |
この仏教的前提を受け入れるなら、結局永遠の何かとして把握できる科学的事実というものは無いし、「永遠」の保持体としての自分もない。よく誤解してる人がいるが、諸行無常は科学法則に従って事物のステートが遷移するみたいな浅い話ではない。科学的学説が時代とともに更新され変わっていくという意味でもない。科学法則自体が本当にあるかどうか分からない、仮象なのだ。
そして永遠の可能性があるのは辺縁すら措定できない宇宙そのものであって、その中の個々の個体ではない。もし魂の永遠があるのであれば、それは宇宙と一体の何かでなければならない。その上、本当にそういうものがあるかどうか、結局人間には分からない。だからlive foreverはOASISの歌や信仰の中にだけ存在している。
そういう思考の伝統と全く違う世界を提示するので、仏教法話は西洋のワカモノたちに衝撃を与えたのだろう。
時を超えて在り続ける普遍的な事実は、科学的に措定はできても論理的に証明できない。むしろ事実と呼ばれるものが何であるのかが重要となる。これは極めて西洋論理的な帰結であり、同時に仏教的主張である。
それで、foreverがあるかどうかも分からないなら、permanentなcultureとは何だろうか?それは結局提唱者たちの宗教的告白に過ぎないのか?
この疑問と、パーマカルチャーが外部の何ものかで補完されていることは、おそらく関係している。
■学びをめぐる矛盾~自然との二項対立を超えて~
自分はパーマカルチャーはあまりに天下りに自然をデザイン対象として対象化してしまう気がしていて、自然と自分を対置する視線のあり方に違和感を抱いてきた。その一方で「自らを豊かにし続ける自然から学ぶ」ということになっていて、そんなあり方のままなぜ学べるのかも分からなかった。
学ぶとは自分に変化が起こることだからだ。起こす、のではない。起きるのだ。それはどう考えても様々な事象を帰納した辻褄の中の、論理的帰結だ。
それは自分や自分の見ている世界が複雑に流転し渦巻き離散する宇宙の中で、たまたまそのように構成された何ものかである、という前提と整合する。より正確にはそういう前提があるとしか思えない、と言わねばならない。
その世界観は静的なロジックで構成される、平板な科学的世界とずいぶん違う。しんとした形而上空間に永遠不変の数式が鎮座していて、そこに何とかしてよじ登りそれを手に入れる。知るとは、学ぶとは、そういうバベルの塔めいた何かではない。
「知ること knowing」は記述し得ないものを当たり前に前提していなければならない。研究が足りないから記述できていない、のではない。そもそも記述し得ないのだ。
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よって知るとは、自分を含む流転が、たまたま自分の中におおきく波立ったことを意味する。宇宙の流転と一体となり、身を任せ、その揺れ動きを身体に感じ続ける中で、ときに大きく身体の中にせり上がってくるものがある。
胸を突く「そうか!」「これが本当のことか!」という感覚。感動と言ってもいい。
それはどこから来るか誰にも分からない。宇宙がどこから来たのか、宇宙の外に出られない存在には分かり得ないのと同じである。
宇宙を自然と呼び替えるなら、何かを知り学ぶ自分は自然と一体である。少なくともそうでなければ、学び自体が起こらない。
そしてそのことに震えるような感動が伴うのは、そのようにできていることは、本当に好運であると思う。生き物が世界を知らねば簡単に死んでしまうなら、生きようとすることには喜びが満ちている。






















