2016年5月14日土曜日

持ちこたえることと本質的な対処と、それを支えるもの



長崎で微生物を活性化する農法について話す中で、印象に残ったことがある。前にも書いたけど、この農法は乾季のバリに有効そうだ。なぜかというと、乾季でまったく雨が降らなくても土中に水分が保持されるので、水やりが乾季でもいらなくなるからだ。

こう見えて実は水不足のバリ
これはバリの水瓶と呼ばれるバトゥール湖が森林伐採で水量が減り、慢性的に水不足のバリにおいてとても意味があるかもしれない。そう言ったときに農園主さんは顔を曇らせた。

「もっと大きな生態系の問題を忘れさせるんだと意味が無い」

趣旨としては確かそんなことを言われてたと思う。

こういう問題を考えるときに、自分はよくタイムスパンを考える。問題に対しあるソリューションがあるとして、それは短期的なものなのか長期的なものなのか?もう少し言うと、対処療法なのか本質的な対処なのか?

■軍事、反対運動というソリューション

これはちょっと軍事に似ていて、要するに目の前の状況は力技でせめぎあって、暴発しないよう抑えつけておくしかないときがある。

だがその裏ではそのせめぎ合う圧力自体を抜いていく、本質的努力がなされなければならない。力を一瞬でも抜いたら破綻するのは秩序のフリであって秩序ではない。

だから、本質的な努力に失敗して破綻が起きるとき、前線で睨み合ってくれているワカモノは真っ先に軍用機で逃げて亡命でもするべきである。

ヘタすれば生命がかかってくる状況で持ちこたえてくれているのに、後方でやるべきことをやらずに甘えている連中のために、会ったこともない他国のワカモノと殺しあわされるいわれなどない。

似たようなことは反対運動のようなものにも感じる。ろくでもないことが行われているときに、がっぷり四つでそれに反対して歯止めをかける、ということは必要なことに思える。

しかし、そのろくでもない暴走が起きる構造的問題を何とかしないと、やはりいずれ力負けしてしまう。人間は自分を見失い暴走するほうが動員されやすいからだ。

■それは持ちこたえているのか?

さらに言うと、反対はまっとうに自分の心に根ざしている中でなされることもあれば、自分を生きさせてもらえず、死と破壊に魅入られて安心して叩ける何かを探しまわっている反対好きの皆さんがワラワラと集まってなされることもある。

「ろくでもないこと」と「反対好き」は、どの権力に乗って(自分がそうされたように)人を切り従えに行くか、という違いでしかないので、逆の主張をしているようで水面下ではほぼ結託しているに等しい。

「反対好き」は、これが正しいから従え、というフォームでやってくる「ろくでもないこと」と全く同じものだ。

人びとを自分自身から切り離し、できた隙間を「正しい」何かで埋め合わせるよう扇動してしまう。それはどんなに正しそうに見えても人間の判断を迂回しているので、人間のためのソリューションにはなり得ない。

実際、外部の「正しさ」にひれ伏すことをインストールされた奴隷の付和雷同ほど恐ろしいものはない。「正しい」のラベルさえ貰えばどんな恥知らずなことでもするので、いつどんなむちゃくちゃな虐待行為に動員され襲い掛かってくるか分かったものではない。

例えば多くのヒトラー研究は一様にその危険性を指摘している。暴走したのはヒトラー1人ではなく、側近連中だけでもないのだ。

 

 そして分かりやすく「ろくでもない」ものは、いつもヒステリックで逆効果な「反対好き」を引き寄せるリスクを抱えている。

それは心から抗議する人を巻き込みスポイルする。それは正当に怒る人びとすら自身の判断から切り離し暴力に浸すという、恐ろしい作動を深層に持つメディアなのだ。

だから一つ一つの「ろくでもないもの」に反対が生まれる裏で、次から次と「正しい」というラベルを自分に貼った別の「ろくでもないもの」がこの世に現れる。原発とか、「正しい」を言い張る人がたくさんいる社会だからこそ温存されるのね。

■短期と長期のあいだ

そう考えると、短期的で目先のソリューションと、長期的で本質的なソリューションはそれぞれ独立には考えられなくて、その関係が大事だと思えてくる。

その2つが矛盾していると、上記の”反対好きの反対運動”になるのだと思う。アクセルとブレーキ一緒に踏んでるみてーな。というよりも、最悪ブレーキのつもりが両方アクセルだったくらいのコワさであろう。

だから短期と長期が目的において矛盾しないのは基礎的条件だが、短期的改善が長期的改善にも資するなら言うことなしだ。さらに言うと、ソリューションが短期的にも、大きな状況が改善した長期的にも使えるものなら、時を超えて使い続けられるし、経験が蓄積されるので便利ということになる。

ではこのバリのケースで微生物を活性化する農法は、どういうソリューションと言えるのだろう。まず目先の状況としては水不足に対応できるのでよさそうである。水不足が解決しても、別に変える必要はないのでずっと使えるソリューションでもある。

しかし短期/長期の関係としてはどうか。これは両刃の剣になりうる、と言える。バリの水不足が解決しなくてもある程度使えてしまう可能性があるので、そっちの問題を放り出してしまう可能性があるからだ。

端的な問題として、この問題が高じるとそもそも人間の飲水がなくなってしまう。私たちは微生物ではないので、土中の水分で生きているわけではない。水不足の影響で井戸は年々深くなっていて、自分がお世話になった家でも一昨年の乾季に渇水し、倍の深さに掘り直したという。

さらに言うなら、経済性に振り回されてなされる破壊は水不足だけに限らない。バリでも排ガスやプラスチックゴミは東南アジアの諸地域の例に漏れず大問題で、これは目先のお金のために水源の森林を伐採していく意識のあり方と軌を一にしている。

川やスバック(バリの用水路)の水は汚染されていて、自然農に使うにはやはりためらわれる。雨や空中の水分もまた恐らく汚染されていて、いつリミットを超えるかは分からない。

分かりやすい例としては中国の状況があるだろう。あのレベルで汚染された空中の水分が吸い込まれてできる作物は、口にする上で適切だろうか?この農法もまた、それだけで万能のソリューションとはならないのである。

■関係を生きたものにする「対等さ」

「持ちこたえること」が実は「本質的な改善」をも促すような、ソリューション間の関係性。それはソリューション自体の技術的問題ではなく、それを使う人間の側の問題だ。

「反対好き」の議論から導かれるのは、矛盾ない目的のために人間が協力するには、やはり自分で考え、自立し、自分の矛盾に厳しく、奴隷の対極にあること、要するに人間が人間でい続けなければならないということだ。

そのためには誰とも対等な、人間でいたいという思いを邪魔しに来る、人間を上位から縛って対等から引きずり降ろす「正しさ」を振り回す奴隷に怒らねばならない。それが本当の反対であり、「持ちこたえる」ということの意味だ。

ガンジーが言ったサッティーヤグラハ(自分の魂にしがみつく)がそういうことではないかと思う。スピノザ哲学におけるコナトゥス(万物に内在するそれ自身であり続けようとする作動)もよく似た概念だ。


この農法も、実は同じことを言っている。ただし自分には経験が絶対的に足りていないので、これは理論からの蓋然的な想像でしかない。

それでも感じていることを言わせてもらうなら、これは微生物を活性化させるデザインを上から押し付けることを意図していない。

そうではなく、どうやって目にも見えない生き物たちに、対等にコミュニケートしてもらうかに、ユンボやチッパーまで持ちだして取り組んでいるのだ。

たぶん、人間とはそういうことを歓ぶたぐいのサルなのだ。そんな風に自分以外の生命が自分に自分を充実させるなかで、自分の中にも自分が溢れだす、そういう作動を生きているし、そうでなければ死に魅入られるのだ。

水はけを改善しているのではない。滞っていたコミュニケーションを回復しているのだ。自分であって構わない、自分が溢れだす中で相手も溢れだす、「たんじゅん」の場を作る者はそう語りかけ、そうして生まれる何かに身を浸し、それを全身に感じている。

■区切りの再参入と世界の高次化

そのように世界に関わろうとするとき、この農法に関わらず農法が私たちに促すのは、栽培というより観察と理解だ。

それは作物、微生物を始め、そこにいる生命を観取し、それらと対等に対話する中でなされる。そうしてとりあえず世界に区切りを入れ、それをもとにデザインし、場を作り、そしてまた区切り以前の世界に戻る。

その全てのプロセスに観察と理解があり、身を浸す歓びがあるが、最後に区切り以前の世界に戻ったとき、観察と理解は一段高次のものとなっている。そのときその世界には他ならぬ自分もいる。

自分が最初に入れた世界の区切りは有効だったろうか。生き生きとしたコミュニケーションがやかましく飛び交っているなら、そして気付いたら自分自身も溢れ出るままにやかましくコミュニケートしているなら、その区切りは有効で、自分の世界との関わり方(デザインと場作り)に活きたことになる。

全員が対等であることを祝福され、それぞれにそれぞれが溢れだす。自分を含む世界のコミュニケーションは活性化し、それによって自分の認識もまた変容する。

もっと見えるようになる。感じるようになる。それは解像度が上がったのではなく、新たに世界が――自分を含む世界が――創発したのだ。

観察と理解が高次になるとはそういいうことだ。そうしてまた新たな区切りが頭に浮かび、試してみたくなる。後は同じことの繰り返しだ。

区切りは常に世界に再参入し、自分を含む世界を創発しなおす一つの糧となる。


”やさしさに包まれたなら、すべてのことはメッセージ”

■一にして全、全にして一

再びバリの状況に戻ろう。この農法をバリの農地がある下流でいくらやっていても森林は回復しない。バトゥール湖の水位にも何の影響も与えない。

だが、あなたは何かを黙殺していないか、と問わせることはできる。本当に世界は活発にコミュニケートしているか?と。

なぜって区切り以前の世界は圃場の境界で途切れない。視界のはるか向こうの森、湖、あるいはそういうものを超えた何かの痛みを、少しの切っ掛けで自分の身に感じるようになる。

自分は個々の何かとして他の個々と対等にコミュニケートしながら、そうすることで他の個々とともに一体の動態でもある。一にして全、全にして一。

コミュニケーションがそれを可能とする。それは超自然の認識ではないが、半径3mの身の丈そのままの世界でもない。

おそらく「バリの水不足」「バトゥール湖の森林伐採」という知識が、すなわち一度世界に入った区切りが、一の世界に半径3mを超えた身体感覚を導入しているのだ。

知識は人間社会でコミュニケートされた何かで、自分が自分でいるとき、知識はそれをさらにドライブしながら世界に参入する。知識が世界を書き写すのではない。世界から生まれ世界を生む糧となるのだ。

世界と切り離された自分が何かを書き下しているのではない。世界は当たり前に自分を含む何ものかなのだ。こうして人間社会、もしくは人間コミュニケーションのカタマリは、世界と交響することができる。

■それは軍事的か?

繰り返しになるがこのことの前提は、世界の全てが自分に自分を充実させるなかで、自分にも自分が溢れだす、人間とはそれを深く歓び、それができないことに深く傷つく存在だということだ。

だから(自分を含む)世界の歓びや痛みと切り離されていたら、一もなく全もない。そうなってしまったら、世界には何もなくなる。

それは自分すらいない絶対の孤独だ。あまりのことに固まってしまった自我には、それが絶望的な孤独と感じることすらできなくなっているかもしれない。

そして全てが「それぞれ」になれた(と感じられた)ときに、人間の水準だけすくい取れば上に書いたような人間の生と協力がある。その中で継続的に、動的になされる観察と理解が本当のソリューションへと人間を導いていく。

これは観察と理解と自分自身のあり方をめぐる循環なので、出現するソリューションはおそらく変わり続ける何かであって、静的な「これだけやってればそれでいい」ような「正しさ」ではない。

そう考えると、最初のほうで軍事に似ていると書いたけど、これはやっぱり全然違う。

内に謂われない死をはらんで状況を抑えつける蒼白な貌(かお)をしたソリューションと、生命に根ざして本質へ開いてゆくソリューションは、どう考えても逆の何かなのだろうと思う。

何か長く、そして理屈っぽくなってしまった。でもこれを書くきっかけとなった対話はほんの二言三言だったような気がする。

ほんとうのこととつながる言葉には、これだけの中身がある。冒頭の言だけでなく、ここで書いた「対等」「溢れるもの」は実はそこで聞けた言葉だ。

人間社会と自然が何かつながった気がして、これを書いてほっとしている。そういう方向へこれからも自分を開いていければと思う。


関連リンク:
たんじゅん農法とは何か、知ってる限りでまとめてみる~理論編~
たんじゅん農法とは何か、知ってる限りでまとめてみる~実践編~


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