2015年10月17日土曜日

漂流



自分を見失った後でそれを取り戻すのは大変だ。でも自分でない者として自分の人生を生きる、それ以上の大損害は無いだろうから、取り戻すしかない。

そのために必要なのが漂流の時間だ。しかしそれはただ流されることを意味しない。それなら見失ったまま日常に埋もれているのと変わらない。

では漂流とはなんだろうか?

■漂流とは再構築である
日常の呪縛から解き放たれ自分を再構築する。
というより自分から隔絶され混乱した自意識を自分に繋ぎ直す。

そのために必要なのが漂流だ。

非日常に飛び込み、その上で流れに身を任せる。何のしがらみもなかったら自分は何を感じるのか。日常に圧迫され失われた感覚を取り戻す。

そういうことに関心があるなら、旅は本当に良い選択肢だ。長く抑圧に屈してきた人間は、おそらくそのプロセスに何年もかかる。仕事などしてる場合ではないのだ。

とはいえ長い時間をただ旅行しててもしょうがない。それではアクティブに引き篭もってるだけだ。外こもりとはよく言ったもんだと思う。

凍りついた自意識を温存したまま、表面上楽しくやって見せる。

いったい誰に対してそんな演出を?もちろんそれは自分に対してだ。”変わるな”と囁く自分の自意識の悪意にこそ、気づかねばならない。

■漂流とはプロジェクト調査である
だから少しでも物見遊山以外の何かを取り混ぜていったほうがいい。

ウーフその他のボランティア・ワークもいいし、インターンを申し込むという手もある。スキルも知識も、ただの旅とは別レベルのものが身につく。実際、関心ある分野でNGOなどのインターンを渡り歩きながら旅をしてる人は多い。なぜか日本人は少ないが。

しかし単純にお手伝いだけだと、作業上の技能は身につくが自分で何かを立ち上げることはできない。”雇われ”ではダメなわけではないが自由度はもちろん低い。

シガラミに歪められていない本当の自分と繋がり直したくて漂流するのだから、決められたことをやるという発想から脱出して、自分を想像上でもいいから解き放ってみることだ。

自分で何かのプロジェクトを立ち上げるために必要な情報を集めてみるのは、本当の自由を構想する上でとてもいいことだ。本当にやるかどうかなんて後で決めてもいいのだ。

例えばある国で自然農プロジェクトをやるつもりなら、農地の価格、地域の有機農業、家賃や生活費、ビザの仕組みなどなど、知らねばならないことがたくさん出てくる。

漠然と自由を望んでいても、ぜんぜんそうなる実感が得られず閉塞してしまう。漫然と旅をしていると、俺こんなことやってていいのかな式の焦燥感が芽生えてくる。

逆に具体的に必要なことを調べあげると、将来こうアクションすればやっていける!というビジョンが見える。

行く先々でいろいろ聞きながら、未来を想像してワクワクしてくる。未来の生活を体験できるので、外食するより地元スーパーで買い物したくなる。ローカル食材で自炊したくなる。家計簿をつけて、コストを確認したくなる。

調査は楽しく、自分を自由にする。

■漂流とは、微かな熱を信じることである
自分も何とか自分が自分として入り込める、この世の隙間を探していた。

その時を思い返すと、最初は本当に一縷の望みを賭けて、本当にこっちに答えがあるかどうか分からないままに農の周辺をさまよっていた。農に指先を引っ掛けるようにして、崖から自分を引っ張り上げようとしていた。

上がった先に何かあるような微かな期待。でも本当に何かがあるのかは、その時点では全然わからなかった。それでも指先に感じる「向こう側」の微かな熱を信じるしかなかった。

その熱が本当は何であるのか、それは事前にはわからない。だからそれにしがみつけばそれでいい。

熱の周りをしつこく、諦めきれず、未練がましくうろついているうちに何かが見えてくる。そしてそれはおそらく見つけたというより、漂流するうちいつのまにか構築した何かなのだ。ちなみに自分にとってそれは農とITとマーケティングだった。それが腹に落ちるまで数年を要した。

スポンサーリンク


スポンサーリンク


0 件のコメント:

コメントを投稿