バリもだんだん農業の担い手は少なくなってるらしい。若い子からすると農業というのはやはりダサいイメージ。ホテルでビシっとユニフォーム着て接客、みたいのがステータスらしい。
そういうカタにはまった感じがカッコよく見えるというのはなんなんだろね。日本も歩んできた道だが。そんないかにも西洋コンプレックス、みたいな空気をふっとばすべくウブドのオサレなバーでいろいろ密談。
お金でソレっぽい建物を建てて、お金で西洋式の教育を持ってきて、お金持ちがそこに集う、そんなんじゃつまらん。
そりゃーバリの棚田に囲まれたなんたらメソッドの学校とか作ってそこに通えたら気持ちいいかもしれないよ。エコビレッジー!みたいな建物があると変わったもの見たい観光客の目を引くのかもしれん。
でもそれじゃバリの文化を消費してるようにしか思えない。ただの借景でなんの融合も変化も起きてない。ただ持ってきただけ。フュージョンじゃなく近代で一部をリプレースしただけ。
それが高じるとあの日本の、あるいは東南アジア各地の、無価値で無国籍なモザイク風景が出来上がるんだと思う。
すごい技術を持ってこなくても、お金がなくても、近くにある物でその辺の人で作ればできる、そっちのほうが多くの人にとって希望であることは間違いない。
それは必然的にその地のリソースを使い、その地に生まれた人びとの感性が反映されたものになる。それは人工物というより自然の一部のような調和を見せる。
その辺の人らが集まってやってきた伝統的技術のよさはそこにある。
技術は独立して技術なのではなく、結びついた人びとを土壌に生まれ、人びとを結びつけてきた文化の粋なのだ。
去年こっちで田んぼをやって、日本の自然農がそのままではまったく歯がたたないことを思い知った。自然農の思想は活かしつつ、バリの知恵を取り込んでやらないと苗一つ育てられない。
現地の人と作業しながら、一緒に自然農のビデオを見て感動しながら、同じ釜の飯を食いながら、試行錯誤を繰り返すなかで少しずつ自分の意味のないこだわりが溶けていった。バリの風土が自分に入ってきた気がした。
たとえば伝統衣装を着た女性がする、毎日路上に置く線香の上で何かを招き入れるように扇ぐしぐさ。その手の動きのたおやかさにハッとするが、それが何を意味するのかは全く知らない。でも少なくともそんな細かなしぐさに気づくことはできるようになってきた。
そのしぐさに込められた現地の人の思いや、社会に対して持つ意味はなんなのか。それを見る外人の思いや、外人がそこにいる意味とはなんなのか。それらはコミュニケート可能なのか。カネとサービスの交換を超え、本当の意味で認め合うことはできるのか。
それができて初めて、その地の価値を破壊することなく、消費して汚して価値がなくなったらサヨウナラではなく、ずっと続く幸せを作れるような気がする。
そこにある美しさにハッとする瞬間、自分の知らなかった、踏み潰してはならない何かが気づかれる。気づいていれば壊さなかったものを気づきもせず壊すような、そんな作動の中に幸せは生まれない。
その気づきを与えあう中で自然に成立するもの。。それだけに関心がある。
プロジェクトについて密談しながら、いろんなイメージを頭に描いた。
それは外人も現地の人も巻き込み、フュージョンしながら少しずつ成立していく。
大きな計画ではなく、小さな気づきを積み重ねる。
その中でその地にある価値を自分に染み込ませながら、自分の持つ知恵を活かす道を探る。
自分は「ここで」「誰と」(普遍的にどこでも誰とでも、ではない)何ができるのか、何をするとうれしいのか?
そのプロセスは大事で、そしてとても楽しい。
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