2016年9月5日月曜日

ギャニャールでバリの助け合いの世界を知る



バリは大家族が好きらしい。理由はシンプルで、助け合えるから。

全員が働いてなくても、親戚で稼いでる人がいたらその人が支えるし、それが当たり前だという。

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これを読むとバリは自殺が無いらしいのだが、モノやお金がたくさんあっても自殺が万人単位で出る脆弱な社会とえらい違うなあと思わざるを得ない。

最近ギャニャールに住む知り合いに聞いたのだが、子どもがかわいいので働かないで家にいるというお父さんもちょいちょいいるらしい(笑)

お邪魔したギャニャールのお宅から

そういう助けあいは血縁に限らない。バリでは、昔のお金持ちは2号さん3号さんを持つのは当たり前だった。

バリは違うがイスラム圏のひとは一夫多妻制だし、実際にするかどうかはともかく、婚姻届には4人目くらいまで妻の欄があるという。

しかしそういう女性は、ダンナが先立った時に身寄りがなくなってしまうことがある。

年老いたときにどうするんだと思ってしまうが、ギャニャールではなんとそれを自治会が決めた家庭で面倒見るという。

あ、あそこもう婆ちゃん死んだし部屋空いてるよな、じゃそこの人、面倒見なさい。
と自治会が指示して、それを普通に受け入れる。

受け入れてもらった2号婆ちゃんも、別に気を使う風でもなく(これ重要)ごく普通に生活している。

これはヒンズーの教えとかコミュニティのルールというより、もっと自然な、「いや婆ちゃん一人になってるのほっとくわけにいかんだろう」という身体感覚なんだと思うんだよね。

もし何かの教えが役立ってるとしたら、そういう自分の自然な感覚を大切にしなさいよ、と言ってくれてるんだと思う。

またギャニャールには村所有の森というのがある。

マンゴーの林になっているのだが、そこのマンゴーは暗黙に少々貧しいお家のものということになっていて、そこの人が取っても誰も何も言わないし、他の人は取らないという。


自分がその話を聞いた時はちょうどガルンガンという、バリのお盆のような時期だったのだが、そういう時期には行事のためガムランの練習をみんなする。

すると近所の障がいを持つ子が、音色に誘われて出てくることがある。

はたから見たらフラフラ歩いているようで危なっかしいのだが、それを普通に近所の人が手を引いてガムランのところへ連れてゆく。

家族も見てるのだが、子どもが手を引かれていくのを別に心配していないし、気を使うとも思っていないようだ。


お話を聞かせてくれたひとは日本人で、ちょうどバリの黒い危険なハチに刺されてちょっと大変だったらしいのだが(大人なのに泣き叫ぶレベルの痛さで、腕が麻痺するほどだったらしい)、そうなると近所の人が見舞いに来て、心配なので帰ってくれないという(笑)

ガルンガンにはお供え物を家のあちこちに供えるのだが、ハチの件もあってお祓いの意味なのか、なんか山盛りで持ってきてくれたらしい。

ガルンガンに通りに並ぶベンジョール

インドネシアは新興国で、福祉もそんなにしっかりしてるわけではない。

しかしこれだけコミュニティの支えがあれば、誰も自殺しないほどに心強く生きられるのだなあと思う。

独居の老人がいたらソーシャル・ワーカーが行かない限り放置で、子どもが一人で歩いてたら「危険だから」警察が呼ばれて、心配もせずにそれを見てる親は責められて、ハチに刺されたら病院があるんだし、民間療法やおまじないなんてもう流行らないし素人が何できるわけでもないんだからと全員尻込み。

そんな世界が幸せなわけがない。

3億人を超える人口を支えるのは、巨大な福祉政策ではない。
そのアプローチではムリである。

税金で絞りとって福祉に当てるなんてことをしたら、天文学的な無駄や使途不明金が生まれることだろう。

新興国だからというより、巨大な国民国家を作ると必然的にそうなるように思う。

ローカル・ワルンが税金払ってるとは思えないが、そのぶん国に頼ることなく、当たり前にコミュニティで助けあっている。

助け合いがあるからこそ、簡素なワルンの収入で全然やっていける

逆に”ちゃんとしてる”はずなのに凄まじい額のザイセーハタンとか引き起こすのは、自然な助け合いをサービスに置き換えることで、人びとが分断されてしまったことと裏表であろう。

多くの先進国で福祉サービスにかかる金がうなぎのぼりになり、なのに原資となる税収が上がらなくなるのは、長い時間をかけて自生した、価値を生み出し続ける複雑で精緻な宇宙を、誰かが頭のなかで考えたサービスの粗い枠で型抜きして崩壊させたからだ。

近代化で世界が広がったはずなのに視野がある意味では狭くなって、地域のこととか見えなくなるんだよね。

歳いった婆ちゃんが一人暮らししてることに何も感じないし、手を差し伸べたほうがいいんでないかといったことも考えなくなってしまう。
世界はどんどんその意味を薄めて透明になってゆく。

それは当たり前にしていた協力をできなくさせられて、ごく自然に助け合う自分が見失われてしまってるってことだと思う。バリには無い自殺とは、究極に自分を見失うということなのだから。

だからバリのコミュニティというか人間同士のごく自然な助け合いに、自分たちが学ぶところはとても大きい。

なんというか、ナチュラル・ボーン・We are the world。ちょっとした合間の話だったけど、聞かせてもらってよかったな。



"There comes a time
When we heed a certain call"

"心の声に耳を澄ませば、その時はやってくる"

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