>> インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)
の続きです。
■日本ブランドは存在したか
”(資本主義は)もう、すでに終わっています。それを終わっていないことにしようとするから、いろいろなところに弊害が出ているのです”(日本の財政破綻は起こるのか起こらないのか ギリシャ問題を機に日本の財政を考える)
それは一言で言えば、本当にはいらないもののために人や文化を含むあらゆる資源がつぎ込まれ、いずれすべて枯渇し破綻するという、これから日本が突入の気配濃厚なシナリオだ。
だから、モノ作りの後の世界で、無限の価値を産み出すブランドは、経済面だけ見てもとても重要だ。
ところで日本が日本ブランドをどう扱ってきたか、その結果どんな状況に追い込まれているかは、外からの目が的確に捉えている。
”京都はフィレンツェのようなイメージだったが、祇園でも町家とビルがごちゃごちゃで統一感がない”(「京都人、感性細やかだが閉鎖的」 外国人クリエーター語る)
”日本の観光客は増えていると言いますが、せいぜい1000万人を超える程度で、フランスの8分の1くらいにすぎません。しかも内訳は台湾や中国など、近隣のアジア諸国が大半です。ヨーロッパから日本に来る観光客の数は約100万人。数千万人を集める観光大国と比べると、いないも同然なのです”(英国人アナリストの辛口提言──「なぜ日本人は『日本が最高』だと勘違いしてしまうのか」(3))
モノ作りが終わった世界で、日本人に飯の種は残されているだろうか。日本は残されているのだろうか。
仏閣をアスファルトと電線が遮り、交通標識が指差す |
日本の高度成長は、最初の10年は意味があったという説を聞いたことがある。そしてそこで止まれず、与えられる大きな物語に没入し、その後はパワフルに国土と未来を喰い潰し続けた。そこに”自分の本当に望むものは何か”という問いは無かった。
以下の番組で為されたという対話はこの辺りの事情と、多くの人が陥る典型的曲解を、正確に示している。
戦後70年 ニッポンの肖像 プロローグ 私たちはどう生きてきたかhttps://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150101_2
確かこんなのだ。
堺雅人「戦争に負けた日本人が経済戦争では勝ちたいと思ったのでは」
タモリ「自分と向かい合うのを避けるためだったんじゃないか?それが人間にとって一番つらいこと。働いていれば誰も後ろ指ささないもんね」してみると「日本」は他ならぬ日本国民にとって、ブランドではなかったのだろう。
■それは日本ではない
この日本の町並みをノー・ブランドにしかねない民間活動の破壊性は、未来を失わせるという意味で国の財政状況とも重なるものだ。
どう考えてもこの財政状況の先にあるのは破滅的なインフレだ。それを食い止めるためにマイナンバーで徹底的に富を捕捉して吸い上げても、おそらく焼け石に水だ。それはインフレではなく直接吸い取ってリセットするということでしかないし、リセットしてもまた同じ状態になる。
どう考えてもこの財政状況の先にあるのは破滅的なインフレだ。それを食い止めるためにマイナンバーで徹底的に富を捕捉して吸い上げても、おそらく焼け石に水だ。それはインフレではなく直接吸い取ってリセットするということでしかないし、リセットしてもまた同じ状態になる。
何も考えることなく恐ろしい勢いで富を吸い込む、シロアリ・システムがそのままだからだ。
最近で言えば、オリンピックの費用はついに2兆円を突破する見込みという。これを最初の見積もりが甘いからと考えるのは、お人好しが過ぎるのではないか。
東京五輪の運営費1兆8000億円 当初見込みの6倍http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151218/k10010345771000.html
最初から、この規模の利権にするつもりだったのだ、と考えてみる。正直にそう言ったら大反対が巻き起こるから、本当の目論見の1/6などという大嘘をこいた。
あるいは本当に6倍にも費用が膨れ上がっても何もできない愚か者が、この規模のプロジェクトを仕切っているということなのか。
これをどう考えるのが自然だと思うだろうか。いずれにせよ、インドネシアの脱原発と対照的なシロアリ・システムの面目躍如であることは間違いない。
この調子で行くと、国民の資産は食いつぶされ、救うことのできない、切り捨てるしかない貧困が民間に溢れだし、やがて破綻が訪れる。一気に崩れるのかゆっくり全面化するのかは、分からない。
そうして99%の国民生活が破綻して、それと引き換えに財政はリセットされるのかもしれない。しかしそこで維持されているのは、政府であって日本ではない。
■自ら何も問わせない社会で
子どもも国土も犠牲にして稼いだ富。「働いていれば誰も後ろ指ささない」に逃げこむしかない、自らに何も問わせない国で、文字通り脇目もふらず働き蓄えた富はしかし、政治経由で、恐ろしい勢いで宗主国に吸い取られ消えていった。バブル期に何の意味もなく、あるいは凄まじい破壊とともに移動した富の多くは、無為に宗主国に上前を撥ねられた。宗主国が ”借りた” 凄まじい額の借金は、為替の操作により4割が棒引きとなった。
とんでもない高額で買い取った海外の資産は、怒りと嘲笑を得た上で、バブル崩壊とともにとんでもない低額で手放すこととなった。
その陰で、例えば京都の貴重な町家は次々とアパートに変わった。天井知らずに上がる相続税に、オーナーたちが震え上がったからだ。
銀行員が「現実」を告げてはオーナーを怯えさせ、借金と投資を促す。でもその状況は、その銀行自体が作り出しているのだ。そしてそのお金を受け取り、 ”仕事” をしたゼネコンがあり、工務店があり、職人たちがいた。
何の意味もないが、強烈なスピードで決裁の書類を回すだけでお金が儲かるように思えた。調子に乗ったエコノミック・アニマルたちの余剰の資本が宗主国も席巻したように見えた。そしてその多くを結局奪い取られる中、日本ブランドは毀損され、町並みは無国籍で安いモザイクとなり、日本を訪れた外人を幻滅させることになる。
「コンクリートの田舎に、誰が帰りたいの?」 古民家再生の第一人者アレックス・カーさん、地方創生を語るhttp://www.huffingtonpost.jp/2015/07/11/alex-kerr-chiiori-japan_n_7777752.html
このシロアリから宗主国へと至る、富を無限に吸い込む大穴。もちろんそれは大穴がその先に口を開ける、与えられた馬鹿丸出しの物語を、疑うことすらしない社会にだけ存在する。
その社会では、誰も彼もが「与えられた物語」を疑うどころか、その中のポジションだけを気にしている。
東大と大企業に子どもを送り込むことに血道を上げ、自分の自意識を満たす道具にする、卑しい親が続出する。外との比較に余念が無く、自分が何者なのか振り返る余裕などない。
職場ではポジションを死守するためだけに脇目もふらず働き、その仕事が何をもたらすのか考えることもなく、よく回る舌で次から次と捏造した口実で、国土と文化をコンクリ漬けにする。
この世界にも稀な文化を、コンクリートとアスファルトの安いモザイクに埋め込んではならない――本当は。 |
さらにそこで稼いだ金だけでは飽きたらず、子どもに凄まじい借金を背負わせてまでもシステムに差し出す。
オリンピックの2兆円も、辺野古の基地の1兆円も、年金運用損の10兆円も、同じことの線上にある。金も国土も犠牲にし、将来に破滅的なツケを回し、植民地の支配者にすべてを差し出す。その裾野に、これも「仕事だから」と ”貢献” してはばからない大量の大人がいるのだ。
■ブランドと植民地化
価値あるものへの問いを産み出すブランドは、資本主義を含む経済システムを下支えするものだ。それはロゴマークに高い値が付くということではない。価値あるものを真剣に考えるコミュニケーションに沿って、富が移動することに本質がある。値段はそれについてくるものに過ぎない。だから、日本ブランドが何であるのかになど全く関心を示さず、言われるままに踊ってみせることで自分の処刑の順番を遅らせてもらって安心するだけの社会に、プライスはついてこない。タモリの”自分と向かい合うのを避けるために仕事をしてみせる大人たち”という指摘が重く響く。
価値とは何かを真剣に、自らに問うことなく、与えられたストーリーを飲み込んで、誰が一番よく飲み込んだかに応じてポジションを与えられる。それは奴隷だ。
ブランドなき社会が貧困に陥るのは、高く売れるモノが無いからではない。プライスの源泉となる価値を自ら掲げることを許されない、搾取されるだけの植民地だからだ。
だからこれだけ利権に文化も国土も蹂躙され、外人に呆れられるのだ。
自分は本当は何を大事だと思っているのか?
そのように”脇目”をふることを許されていたら、それを許されぬことに当たり前に怒れていたら、そんなコミュニケーションが巻き起こるブランドが存在していたら――こんな植民地化は起こらないのである。
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿