インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)
ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)
遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)
再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)
オランダ病から情報社会へ―情報時代の野蛮人から(5)
情報社会と情報コミュニケーション―情報時代の野蛮人から(6)
情報社会とIT―情報時代の野蛮人から(7)
の続きです。
■情報ルネサンス
ここに豊かな資源を持ちながら、その盲目的浪費を回避し、外国からの搾取の心配もない国があるとしよう。国民はどう生きようと暮らしを立てられる。この大安心に支えられ、コミュニケーションは恐怖から自由で健全なものとなり、ハラスメントは影を潜める。
踏みつけにされる恐怖があると、自分が踏みつけにする側に回らないと怖いので、踏みつけにできる誰かを探してしまう。相手を追い込むためにもっともらしい枠組みを持ち出し、常にお互いを監視する。そのためにITも有効に使わねばならない――そもそも恐怖がない社会には、そんなことが起こらない。
だから、どんな暮らし向きであろうと、多くの人から見て”貧しい”と思えるような暮らし方だろうと、バカにされることがない。CMの垂れ流す、斉一的な清潔・快適なイメージをむしろ失笑する。様々な”バカげた”チャレンジが許されるし、資源はそれぞれが必要と思う分だけに最適化して消費される。
これは共同体とは根本的に違う。みんな同じだから攻撃されないと安心するというのは、本当は安心と程遠い。それではみんな同じに貧しくあるために、足を引っ張り合うことすらあるだろう。
それは地獄に糖衣の薄皮が貼ってあるだけの何かであり、多様性の中の統一ではない。安全と自由が殺しあう場所に、人間は住めない。
この国では国民が自らの生を謳歌するがゆえに、心ある政治家が選ばれる。誰もが自足していて、与えられる利益がいらないので利益誘導が効かないのだ。そして一人ひとりが自分を生きるために役立つ政治的決定が為され、国是 ”BHINNEKA TUNGGAL IKA(多様性の中の統一)” を裏打ちする。
それが国のブランドを培う。ブランドは国内外の有能で心ある人々を次々と惹きつけ、創造性溢れる人々のコミュニケーションの渦が巻き起こる。その中からユニークな製品・サービスが次々と生みだされる。
自分を生きられない辛さを忘れるための浪費と、お金以外何の価値も感じていない盲目的労働によって経済システムが回っていないので、それらは必然的に非・資源収奪的なものとなる。その先進性がさらにブランドを強化する。
コミュニケーションとブランドの交響に支えられ、大安心も循環的経済も連綿と維持されてゆく。自然と調和した美しい暮らしが創造され、損なわれた環境がみるみる回復してゆく。社会の多様性が培われる中、生態の多様性もまた復活する。もうサーファーが波の中に巻き上げられたゴミを見ることはない。
国民はやがて、国是 BHINNEKA TUNGGAL IKA がその先進性の基盤であり、先進性そのものであったことに気づいてゆく。それは不断に向き合い、磨き続けるべき何ものかなのだ。
そこに生きる人それぞれの真実が、何度失われても損なわれても、多様性を護るコミュニケーションの中で再生する。
インドネシアは、そんな情報社会に支えられた国家への道を開いたのだ。ブランドを構築し、植民地化を拒否し、国民のコミュニケーションへの信頼を培うことによって。
(続く)
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