インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)
ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)
遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)
再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)
オランダ病から情報社会へ―情報時代の野蛮人から(5)
情報社会と情報コミュニケーション―情報時代の野蛮人から(6)
の続きです。
■寛容のブランド
ITを駆使しない金融業務は、そのキモである金額だって間違えやすいはずだ。預けるほうからしたら、それは不安なはずだ。ではその不安は何で贖われるのか?
システムが担保しない以上、人間がリスクを引き受けるしかない。しかし絶対に間違わないことを前提にしたら、それは不可能だ。本当はシステムでやっても不可能だが、人間よりも遥かにその確率は低い。そして人間の判断はどんどん迂回され、コミュニケーションもやせ細ってゆく。機械にその両方を奪われたからだ。
It happensではない世界を妄想させることで、失敗は許されなくなってゆく。リスクはインフレを起こし、ITシステムにしか取り扱えないものにまで巨大化する。
そうして無限にハードルを上げ合う中で、人間は排除されてゆく。人間同士のコミュニケーションみたいなあやふやなものを排除するから、正確さが担保されるのだ、ああ素晴らしい。言うまでもなく、それは倒錯だ。
ではリスクを無限大にしておいて、しかもそれに対処できるなどと思い込む倒錯に陥らず、エラーに対処するにはどうすればいいのだろう。答えは簡単で、起こってしまったエラーを、人間が真摯に修正すればいいのだ。
間違ったとしても、修正を許す寛容さ。それが作り出す朗らかさと正直さ。それが人間に、正直に、真摯に、エラーに対処させる。
過ちは自ら正せばそれでいい。「過ちて改めざる、これ過ちなり」。この寛容さを社会に期待できるから、人は心の平安を乱されず、自分の真実を捻じ曲げずにいられる。
それには人間がITがうみだすような完璧妄想に陥っていないことと、実際のリスクが大きすぎず、それが発現したときに責任者たちが恐れおののいて棒立ちになり、責任逃れの嘘に逃げずにすむことがその前提条件だ。原発ってどうだと思いますか?
間違いは無いに越したことはない。しかしそれは起こる。起こったときに行われる真摯な所作が、本物の信用を作る。冒頭に書いた不安がそのような仕方で対処されるとき、そこにはブランドがある。東電ブランドって今どうなってると思いますか?
だから本当のブランドは、寛容さが作るのだ。ブランドにおけるコミュニケーションの中で不安は安心へと転化し続ける。それが発現する条件を、社会は維持しなければならないし、ITはそのためにこそ使われねばならない。
逆に言えばリスクを極大化し、パーフェクト幻想を育てて、それに合わせるべく人間を監視するのは、人間の真摯さを毀損する冒涜行為である。ITがそういう用途に使われることに、我々は警戒せねばならない。
■意味、価値から出発する社会
小さなローカル銀行は世界中の情報を集めて投資したりしない。だから大金をいい利率で預けて大儲けはできないが、自分が住む町のニーズに必ずお金が投資される。
あなたはそれを子どもに自慢することもできる。あれは私たちが、この町のために作ったのだよ、と。その安心と誇らしさ。それは社会が不安から解放され、寛容さを発現する前提の一つとなり得るものだ。
そういう「意味」や「価値」を大切にする。互いのそれを愛しむ。それによって経済的にも生きてゆくことができる。意味や価値が情報、愛しむことがコミュニケーション、そしてその集積が経済的価値を生むとき成立しているもの、それが情報社会だ。
情報の基盤たる意味や価値は、人間が生き生きと自由に創造性を発揮する限り、無限だ。生命の燃焼は、有限な資源の持続不可能な蕩尽ではなく、無限の情報が産み出す。
どう考えても不要な大量消費は、「お前は”ちゃんと”してるのか?」「みんな大変な思いをしているのに、お前だけ違っていいと思っているのか?」というハラスメントに常時晒され、意味や価値を愛しむことから――自らが産出する情報から――切り離された意味的飢えによって必要とされるのだ。
だから、自分のなかに創造される無限へと人間を開く。そのために人々を繋ぐ。そのためにITができることは多くある。「同じになる」ためではなく、「それぞれがどこまでもそれぞれである」ためにコミュニケーションを紡ぐのだ。
人間が「固有である」ということは町並みにも現れる |
だから、情報社会とITはときに相剋するのだ。ITが何に使われるかに、その社会の野蛮さ、あるいは気高さは如実に現れる。
間違ってもITを駆使して、人間を誰かが思いついた何かの枠組みに追い込み、我慢に我慢を重ねさせるのが情報社会だなどと勘違いしないことだ。
(続く)
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