インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)
ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)
遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)
再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)
オランダ病から情報社会へ―情報時代の野蛮人から(5)
の続きです。
■情報社会と情報
ブランドにおけるコミュニケーション、そしてその上に発現する、非・資源収奪的で、生命が燃えるように生きる社会。もう明らかだと思うが、情報社会とはITが普及した社会ではない。
人々のうみだすコミュニケーションが生き生きと活発であることが、深化した情報社会の特徴であり特長である。ITはその特長を維持するため使われる道具にすぎないし、それを毀損するなら使われてはならない。
ITは、生き生きと生きたい、自由でいたい、人間でいたいと当たり前に感じている人々を繋ぐメディアにもなれば、ギチギチに人を監視する呪縛のツールにもなる。マイナンバーはどっちだと思いますか?
バリではいまだに通帳に手書きするローカル銀行がある。
これがそうらしい |
ドイツにもExcelすら使わないで運営している小さなローカル銀行があるという。
ここではITによって失われていない情報、手ざわりのようなものがある、と想像してみる。
コンピュータを駆使せず、紙に手書きでたくさんの記録をつける。大量の数字が自分の上を通り過ぎていくのとはまったく違う感覚。
デポジットの3,000円を記録する。ふと手を止めてロットンドゥのあのおばちゃんがやってるナシ屋の、昨日の売上かなと考える。
バリの路上ナシ屋 |
そんな想像を楽しむ中で、投資のアイデアもまた湧いてくる。この暮らしを壊すようなことはできない。でもそう言えば仕入れに行くパサールに行く道は悪くて、事故も多いみたいだ。あの道がなんとかならないか。あるいはもっと近くに食材を買えるところがあったら?
いやしかしパサールで売ってる人も彼女の親戚だ。きっと彼女はあのパサールで買いたいはずだ。だとしたらどうしたらいいのだ?
こうして自分のなかに次々と情報が沸き起こってくる。
バリの伝統的パサール(市場) |
■情報社会とコミュニケーション
もし担当が分かれているなら、そうして考えたことを投資担当に伝えることができる。彼らはデータでは得られない貴重な情報から、生きた投資とは何か深く考え始める。
このような情報やコミュニケーションは、ITで素早く次々と数字を処理する中で簡単に落ちてしまう。人間が人間に向き合う意識があるのか。そしてITにデータを入れる以前の問題、ITのデザインにこういった情報を取り扱う意識があるかどうかだ。
それがなければ、例えば田んぼや古いパサールなどさっさと潰して、近代的な四角いスーパーでも建ててしまえばいい、さっさと大量にモノと金が行き交えば効率的でいいじゃないか、そんな発想になりがちだ。大量の数字をまとめ上げたマクロなものしか見えにくくなるからだ。
そして町並みと文化は破壊され、価値の基盤が損なわれたがゆえに、作ってしまったモノの値段が地盤沈下する前にどうやって売り抜け、誰かにババを引かせるかという、さもしい押し付け合いのコミュニケーションが始まる。
そして最後の押し付け先がなくなったとき、経済は崩壊する。バブルとはそういうものの極端なバージョンにすぎない。
その押し付け合いの成れの果てが、アジア全域に存在するうらぶれた、文化もきらびやかな近代も何もない、どうでもいい町の群れだ。押し付け先がもうなくなってしまったのだ。
ノルマという数字に追われたサラリーマンが、それをするのだ。それで、彼はいったい人間に向き合っているのか?そうでないとしたら何とコミュニケートしているのだろう?
逆にゆっくりと想像が展開する中、マーケティング・ツールを駆使したマクロな分析では見えてこない、本当に重要な何かが見えてくる。安易に儲かるポイントへの投資は、価値のシステムを破壊しかねない。破壊されていいシステムもあるだろうが、それはシステムの全体像に想像の翼を広げないかぎり判断がつかない。
そこで初めて広範囲のデータをまとめ上げるITの出番も出てくる。その基盤にあるのはITにブーストされないことによる、スローさだ。ITを含め、本当に必要なものを見極めるには、自分の感覚を深く全開にしなければならない。遅さは武器にもなるのだ。
(続く)
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