※この記事は、
インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)
ブランドなき国の植民地化―情報時代の野蛮人から(2)
遠い日の忘れもの―情報時代の野蛮人から(3)
再植民地化に背を向けるインドネシア―情報時代の野蛮人から(4)
の続きです。
■オランダ病から情報社会へ
資源の効率的な切り売りも、蕩尽も簡単にはできない。
エネルギーに限界のある社会を選択するということは、そういうことでもある。
それが「発展」を抑えてしまっているように見えるのは、前提条件がある。それは社会の情報化と関係がある。社会が情報化していれば、発展には別のルートと形態がある。
新興国が資源の切り売りで稼がないとしたら、では何を売り、消費してもらうのだろうか?それには、消費とは何であるかから考える必要がある。
見田宗介は消費とは生命の燃焼であり、現代においてそれを可能とするのは情報であると説いた。
「資源をさらに多く蕩尽できること」は、モノが行き渡った現代社会においてもう喜びをもたらさない。だから資源そのものはもう金にならない。資源を組み合わせ、優れたプロダクトを作り出す、その「デザイン情報」にこそ実は金が支払われている。
よって情報社会では資源が大量に収奪されることはなく、
最小の資源と組み合わされた情報が、生命を燃焼させているのだ。
オーストラリアで訪問した
日本米農場でも、福島から移住された農場主さんが似たことを言っていた。米価は確かに安い。だが米粉のシフォンケーキを作れば、単価は4倍になる。日々食べるお米が充分あるのなら、シフォンケーキを買うのと同じ金で米を4倍食べても、確かに意味は無い。
バリの文化資源も同じことだ。外人がたくさんやってきて金を落とすのは、そこで生産されている米を食べるためではない。
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バリの棚田は何か ’深み’ を感じさせる |
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美しいギャニャールの田園風景 |
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外人の泊まるホテルには、バリらしいガーデン |
衣食足り、モノ作りが終わった時代に、さらにたくさん食べたり、新しい家電を買って家の中をごちゃごちゃにしても、ストレスが溜まるばかりで生命が燃えている感じはまったくしない。よって産業が資源収奪的である必要はまったくない。
しかし十分可能であることは、必然的にそうなることを意味しない。
優れたデザインに金がついてくるなら、資源そのものに支払われる金銭が少なくても、結局資源が枯渇するまで製品を大量に作り売り捌きたくなるのではないか。その資源の中には、収奪先の国の自然や、人の命も含まれうるのではないか。
たとえばアップルの下請け、フォックスコンで起こったことはそういうことである。
アップル「解けた魔法」、中国で長時間労働 サプライチェーンの舞台裏
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO40155290U2A400C1000000/
iPhone6利益は6万円でも下請けは500円、超絶格差に中国震撼
http://iphone-mania.jp/news-59142/
ここでは見田の言うとおり、資源そのものではなくデザイン情報にたくさんの金が支払われている。しかしそれは搾取の終焉を意味していない。徹底的な増産のため、海の向こうで徹底的な人的資源の動員が行われる。
アップルといえば、情報時代の寵児である、というのがそのブランド・イメージではないだろうか。だから、見田の言う収奪的でない情報社会が成立するには、様々な前提条件が必要なのだ。
■情報社会の基盤
そしてその前提条件の一つが、
石井淳蔵が言う意味でのブランドだ。
事態を重く見たアップルは、サプライ・チェーンの管理に次々と対策を講じている。そんなもの、下請け会社自身が自国の法律に従って管理すればいいこと、と突き放して終わりすることもできたはずだ。コストもかかる。なのになぜそうするのか?
消費者にその状況が露見するに至って、アップルがブランドの毀損を恐れたからだ。
アップルCEOのTim Cook氏、中国のFoxconnの工場を視察
http://iphone-mania.jp/news-50057/
Apple、中国でサプライチェーンの環境対策に本腰
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/idg/14/481709/051300090/
あるいは希望的にこう言うこともできる。アップルは自らの誇りにおいて自らを見つめなおし、あるべき姿を再デザインし、直接消費者に見えない調達すらイノベートした。それによってブランドが守られたのだ、と。
いずれにせよブランドは、企業と消費者がブランドを追い求め、ブランドにおいてコミュニケーションを交わすことは、
企業にフィードバックとイノベーションをもたらす。
必要と信じることに一つ一つ取り組んでいけることは、働く人々に誇りを与える。消費者は、そういう誇りある仕事を受け取れたことを、誇らしく、心強く思う。消費者は働く人々でもある。働く場がプライドと両立し得るということは、彼らにとっての希望でもある。
そこでコミュニケートするすべての人を欺瞞から救い出し、生命の燃焼へと指向させる磁場となることで、ブランドは見田の言う現代社会の前提として浮上する。
資源収奪を伴わない、高付加価値の源泉としての「デザイン情報」。それが生み出されるのは、人々の目線を
彼ら自身の誇りへと導き、諦めから救い出し、創造性を引き出す土壌があってこそだ。
それは
社会が様々な問題を直視し、学習し、その作動を改めることと表裏一体なのだ。
だから、もしインドネシアを先のないオランダ病から救い出し、創造的な情報社会へ導くものがあるとしたら、それはインドネシア自身が創りだすブランドなのである。
■適正技術とデザイン情報
そう考えるとブランドがあり、エネルギーはないインドネシアの状況は、大量のエネルギー前提のモノ作り社会を迂回し、直接情報社会へ移行してしまうという先端的な社会発展ルートを切り開くものだ。
もしモノ作りに走るなら、バイクをこれだけ使うなら自前で作れるようになるというのが一つの方向性となる。新興国の人びとが乗っている大量のバイクには見えないストローがついていて(原発ほどの極太ストローではないが)、タイヤの一回転ごとに富をチューチュー外国に吸われている。
自前の資源でなんとか作れる技術を作り上げれば、その富はインドネシア国民に巡る。バイクではないが、実はインドネシアにはそういう技術導入の実績がある。
現地の資源と人材で回ってしまうシステムは適正技術と呼ばれ、(原発のような)高度な技術ではないが十分にニーズを満たす。上掲の本ではヤシを使った排水処理システムの例などがあり、読んでいるだけでワクワクする。
なにしろヤシは、インドネシア中にそれこそなんぼでもあるのだ。これを使って水をきれいにするという
インドネシア喫緊の課題を解くなんて、なんてスマートなんだろう!
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風の強い日など、上から巨大な葉が落ちてくる!これが勝手に育っているのだ |
それに、そもそも自国に複雑で高品質なモノを作れない、あるいは作るエートスが伝統的にないなら、作る必要がないのではないか。
輸入に頼るのが問題なのなら、輸入物品を使わずにすむ、「近代社会ではない社会」を作ればいいだけだ。
例えば
セル・シティという、いわゆる先進国でも先端のコンセプトがある。バイクで常に移動しなくても小さな範囲に必要なものがすべて入っていれば、自転車で十分なはずだ。
バイクが必要な局面を洗い出して、それが近くにあったら?と想像してみるのだ。恐らく、バイクはシェアしてたまに乗るだけで済むようにすることは可能だ。
ただしそれはバリならバリの文化や伝統的システムと親和的でなければならない。既存の高い価値を持つデザイン情報を叩き潰して頭のなかでこねくり回した何かと入れ替えるのは愚の骨頂だ。
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これはバリだろうか? |
町に”WiFiカフェが必要だから” の名のもとに、バリの文脈と関係ない無機質な店舗を入れてしまうと、そもそも誰も来なくなってしまう。ものすごい距離を越えて人がやってくるのは、無国籍なWiFiカフェでネットが使えるからではない。
■ブランド、デザイン、情報社会
だから、現地の知恵、それがどうシステムを成しているのか、をまず理解するべきだ。バリらしい町並みを作り上げるシステムはどのように成立しているのか。これまで実現しなかった町並みのあり方は、それとどう交響すれば産まれうるのか。
日本でもそういうものを無視したことで、救われる命が救われなかった。津波が来ると分かっているなら、そこを近代技術で無理やり切り開いて住まなければよかったのではないか。そこに住まなければならない理由はなく、売る側の住ませなければならない理由があっただけなのではないだろうか。そんなふうに思う。
近代などという短いスパンを超えた、悠久の時間に耐えた知恵。先人が調和することで保たれてきた自然。そうしたことのすべてが、情報社会で価値を持つデザイン情報なのだ。適正で高質なデザイン情報は、現地のブランドの中で創発する。
私の知り合いのバリの大工は、儲からないけどバリ装飾が好きだと言っていた。町並みを作ってきたことに誇りを持っていた。彼は外人と新たなプロジェクトを始め、バリ装飾を新たな仕方で創りあげようとしている。バリの価値を愛し、新たなニーズを伝える外の目が、その動きを創発させた。
前述のヤシを使った適正技術も同じことだ。輸入品なしには成り立たない、自分たちにとってブラックボックスでしかないシステム運用に本気になれる人はいるのだろうか?適正技術は、単に物質的に持続可能である以上の意味を持っていると思う。現地の人が仕組みを把握し、自前の資源でメンテナンスし、運用する技術は、現地のブランド・マークを付けるに値するものだ。
だから資源切り売りを続ける必要もなければ、ムリにやりたくないモノ作りをする必要もない。したいことをする、作りたいものを作る中で、インドネシアはインドネシアらしい情報社会を創っていけるはずだ。本当に作りたいものとは何か、誇りにしているものは何か?ブランドが、人をその問いに導く限り。
(
続く)